思い出せない人
投稿者:くま (10)
これは以前、介護士として勤めていた特別養護老人ホームでの不思議な出来事だ。
そこは深刻な人手不足の上に、職員間の派閥等で、介護の質が落ちていた。評判もずいぶん悪かったと思う。それでも切ないのは、そんな特別養護老人ホームであっても、入所申し込みが後を絶たないことだ。毎月のように新規の入所者が入るが、彼らはいつも、だいたい二通りの余生を送ることとなった。単純に言うならば、「長生きする人」と「半年以内に亡くなる人」である。早い人は入所後、数日で亡くなる場合もある。それは、たまたまそうなったのかもしれないが、やはり、この施設との相性もあるのかもしれない。
今は亡きK氏は「半年以内に亡くなる人」に振り分けられる。看取り対応となったのは、入所から三か月目ではなかったかと思う。その頃になると、飲み込みの力が悪化し、わずかな水分を摂るのがやっとの状態だった。車椅子で座位を保つのも難しい状態となり、全日ベッド対応の人となった。
K氏は居室のベッドで休みながら、頻回にコールを押す人だった。職員は、コールされたから訪室するのだが、決まっていつも、K氏は喉の渇きを訴えた。
「喉乾いたんですか。じゃあ少しずつね」
職員は一さじずつ水分を勧めるが、K氏は一口飲んでむせ込み、結局、それ以上の水分は入らないのだった。
最期が近くなった頃、K氏の訴えは、喉の渇きに加え、「サミシイ」という言葉が加わった。確かに寂しかったろうと思う。昼間でもK氏は一人で居室に取り残されていた。ホールで歌が流れたり、何かレクが始まっているのを、居室で聞いていなくてはならなかったのだ。それにK氏には面会に訪ねてくれる家族がいないのだった。
K氏の寂しそうな顔は、よく覚えている。
昼間、ふと気になって入浴準備のついでに居室を覗いてみると、四人部屋の窓辺で一人、ベッドで寝ているK氏が目を閉じている。寝ているようで寝ていないように思われた。眉をぎゅっと寄せていて、閉じた目がなんとも悲しそうなのだった。ベッドの側の台には、作り置きしたトロミ剤入り水分がスプーン付きで置いてあり、ティッシュがかぶせられている。そっと寄ってみてティッシュの中身を見てみるが、その水分が減っている様子はない。
(水分補給の介助をしようとしてむせられて断念したか、それとも、そもそも水分補給にすら来ていないのか)
多分、後者なのかもしれなかった。
またある時、わたしは、K氏が一人で寝ている居室から職員の怒鳴る声を聞いた。
「ね、何回もコールおさんでくれる。飲みたい飲みたいっていうけど、結局飲めないんじゃん。どうにもできないのねぇ。こっちも忙しいんだから勘弁してよっ」
扉が少し開いていたので中が見えたが、仁王立ちになっている太った職員の影になって、K氏の様子は分からなかった。酷いことを言う職員ではあるが、その時、わたしも「コール対応おいつかないんだよなあ」と、思ったのは事実である。だから、わたしも酷い職員の一人には違いないのだった。
そのK氏が亡くなってからだいぶたった頃、彼の夢を頻回に見るようになった。
夢の中のK氏は看取りの状態で、ベッドから痩せこけた顔を出している。コールを鳴らされて訪室するのだが、K氏は何も言わず、じいっと見つめるだけだ。何かを訴えようとしている、と、わたしは感じる。それで「はい、どうしました」と聞こうとするのだが、その時点で、K氏の名前を思い出せないことに気づく。
なんて名前だったっけ、この人。結構、特徴的な名前だったような気がするんだけどなあ。
なんとも寂し気な目をして、K氏は次第に姿を薄くしてゆき、やがてわたしは気分の悪い目覚めを迎える。
「誰だったっけ、あの人。すごくコール鳴らされて、よく覚えているはずの人なのに、名前が出ない」
いくら頭を悩ませても、K氏の名前は出てこなかった。
K氏は確かにコールを頻回に鳴らした人だが、手はそんなにかからない人だった。居室で一人で寝てもらっていても転落するわけでもなく、暴言暴力があるわけでもない。食べないので、酷い便で大変なことになることもない。しかも施設は人手不足だった。誰もK氏のことを気にかけていなかったと思う。ベッドでの食事介助に入るのも、忘れたころだった。
「ねえねえ、あの人覚えてる。あの部屋にいた人。もう亡くなって一年くらい経つかなあ」
あまりにも気になるので、同僚に聞いてみた。しかし、どの職員もK氏の名前を憶えていなかった。それどころか「そんな人いたっけ。覚えてないわ」と、はっきり言う者もいた。
わたしはと言えば、もう少しで思い出せそうに喉から出かかっているのに、K氏の名前が出てこない状態が続いていた。あいかわらず夢には出てくるし、これは何としても思い出さなくてはいけないと思った。誰も覚えていないなら、記録を見るまでだった。施設のパソコンには、二年前までのデータが残っている。ついにわたしは夜勤の暇な時間を使い、K氏のことを調べてみた。当然、データが残っていた。そこにはどんなに思い出そうとしても思い出せなかったK氏の名前が、ちゃんと残されていた。
「ああ~、そうだ、こんな名前だ」
かちり、と、パズルのピースが嚙み合ったような気がした。
よほど思い出して欲しかったのだろう、わたしが名前を思い出してから、K氏が夢に出てくることはなくなった。
しかし、わたしは今だに心が痛むのだ。あの、夜勤の時に調べたK氏が存命中の記録は、他の利用者についてのケース記録の量の半分以下だった。コールで呼ばれたがどんな様子だったのかすら、ほとんどの職員が記録に残していなかった。その僅かなケース記録のほとんどが、わたしの入力したものだった。それも、夜中に五分おきにコールされたが、何も言わなかったとか、多分、苛々しながら打ち込んだような内容だった。
「Kさん、もうむせて苦しいことはないし、ベッドに一日中いなくてはならないこともなくなったでしょう。甘くておいしいお水をたくさん飲んで、賑やかに過ごしてください」
もう夢に出てこなくなったK氏に向けて、わたしは祈るのだ。
みんな忘れていた?
なんだかじわじわ怖い
なんか独特の怖さがある
ヒトコワやなぁ