戦友のいたずら
投稿者:海堂 いなほ (14)
戦争に関係する話が続いて恐縮なのですが、私の祖父から聞いた戦争での不思議な体験についてお話をします。
私が子供のころ、7月の決まった日に必ず、我が家に神主さんが来て、酒を飲んで帰って行っておりました。こんな話をするとけしからんと言われそうですが、ある程度まで私が大きくなるまで、「神主さんは、祖父と呑んで帰る吞兵衛」だと思っていました。私の知らないところで、実は、祝詞を挙げてから、祖父と飲んでいたようです。私が、知っているのは、神主さんと祖父が一緒に飲んでいるところしか見ていませんでしたので、そう思ったのも仕方がないと思ってください。
少し話が脱線しましたが、祖父と神主が飲んでいる間に、私は、その恩恵に与ろうと祖父の膝の上で、おつまみを言葉のとおり、つまんでおりました。
そんな時に不思議なことに並べてある盃の数が明らかに多いのです。最初に気づいたときは、ちょっと不思議の思う程度でしたが、ある年、思い切って祖父に聞いてみました。
「おじいちゃん、どうして、コップ(盃)の数が多いの?」
ほろ酔い気分の祖父が顔を赤くしながら答えてくれました。
「うぅん?お前には見えんかのう。いっぱい、いるんだよ。」
祖父はそれだけ言うと、また、盃を呑み干しました。
「○○さん(祖父の名前)、それじゃ分からんよ。なあ、私ちゃん。」
神主さんは、呂律がかなり怪しいまま、私に言いました。話は、それで終わってしまいました。私も、それ以上、聞くことはありませんでした。
神主さんが帰った後も祖父は、独り(膝に私が座っています)で呑んでいました。
「おじいちゃん、まだ、(盃を)片付けなくてよいですね。私ちゃんもそろそろ、こっちに来なさい。」
私の母の言葉に祖父は酔っぱらっているのか、頷くだけでした。私は、「はーい。」とだけ返事をすると、目の前のスルメに手を伸ばしました。いつも食べることができない未知の味に感動しつつ、しょっぱいなと思いながら、飲み込むためにジュースと一緒に食べていました。すると、祖父が突然、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で
「ありがとう・・・・・・・・・・・・・・。」と言っていました。
呑み会の話は、これで終わりです。
さて、この話には、まだ続きがあります。
その次の日だったと思いますが、私は、祖父に昨日の件を聞いてみました。
「おじいちゃん、どうして、毎年、神主さんと一緒にお酒を呑むときは、コップを一杯置くの?」
「それはな。」
祖父は、少し考えるとインドのトング―での戦争の話を始めました。
祖父は、大東亜戦争(太平洋戦争?)中、陸軍士官として従事した満州、ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)周辺で戦った時の話をよくしてくれましたが、インパール作戦後のトング―(インド東部、インパールの北東)での戦闘の話は初めてでした。いつもの戦争の話は、戦闘の話はなく、戦地でのバカ話や、現地人との話、同期との話がほとんどで、昔話感覚で聞くことができ、睡眠導入剤としては最高の白物でした。しかし、その日の話は、「儂(祖父)は、陸軍士官学校を出てすぐに、すぐに戦地に送られた。成績も良いほうではなかったからの。それに幼年学校組ではなかったから、士官学校では、まあ苦労したよ。それでな、最初は、満州で、関東軍特殊演習に参加し、戦争ってこんなもんかと思ってたんだが、ビルマに行ってから、特にトング―はひどかった。」と、いつもの前口上とは違っていました。
祖父は、第53連隊の中の約30名の小隊長として、。と言っても、悪夢のような作戦、インパール作戦が終わった直後に到着したこともあり、すでに敗戦は明らかであり、目の前には、大量の負傷した日本兵と機械化したイギリス軍が手ぐすねを引いて待っている状態でした。祖父は、それまで、自分が運がよかったことに気が付かされました。インパール作戦の時は、比較的後方のミャンマーのカローと言う町にいたおかげで、作戦には参加しなかったおかげで自分は生きていたのだと思い知らされました。
「○○(祖父の苗字)少尉」
祖父の上官にあたる○○大尉が祖父を呼びました。祖父は、大尉の前に出ると敬礼し、命令を聞きます。どうやら、インパール作戦に従事した兵隊の収容が今回の任務だったようです。
「承知しました。」
大尉は、命令を祖父に伝えると、急に言葉尻が柔らかくなり、言った。
「○○(祖父)よ、味方がだいぶやられているようだ。俺も少し前に来たばかりだが、帰還兵に聞くと、ずいぶんやられたとの話しか聞こえてこない。それに、飯も食えていないし、赤痢にもなっている。お前も気をつけろよ。」
「はい。」
作戦が無茶であることは、終わってから気が付いた。インパールに向かうまでは皆、半信半疑でも信じるしかなかったと祖父は言っていた。
感動すぎる!! まさか繋がっていたとは、、、、