南から冷たい風が吹いてきた。低空には青黒い雲海が広がり、上空に向かって薄墨色まじりの白い山のような雲が伸び上がっている。これから夕立になるかもしれない。
親父が霊になってから64年経つが、そんなに長いあいだ宿怨や憎悪を持ち続けるのは尋常ではない。他人を憎み続けるということは、自分自身をも苦しめている筈だ。親父は、人間の労苦を全てムダにした泥水に流されて揉まれながら、息を引き取った。その無念をたたりという形で、ツマ子にぶつけてやろうとは思わなかったのだろうか?
「おい、憂一、落ち着かんか、鬼火が出とるぞ。おまえこそ顔色が土気色だ。頬はこけてるし、体は骨皮筋右衛門じゃないか。」
と、親父が軽い驚きと憐憫をたたえた目で俺を見たーーそうだ、親父は暗褐色の瞳の周りに、空色の輪を持っていたよな。白内障の症状とも知らず、俺は親父の目をきれいだと思ってたなーー。
俺は気が高ぶって、うっかり冥色の丸っこい火の玉を出してしまっていた。俺の鬼火は冷たい風にあおられて、尻尾のようなものまで作っていた。
「ああ、しまった。お盆の時期に、それも屋根の上でこんなものを出しちまったら、誰かに見られてヘンな噂を立てられるよな。」
と俺は苦笑いをし、深呼吸をして怪火(鬼火)をしまいこんだ。
「わしがツマ子さんに何もせんだのは(しなかったのは)、あの用水路に向かう間際に、あの人の腹に孫のナガオがいたのに気づいたからじゃ。まだまだ小さかったが、確かにわしの父親に似とった。ああ、だがなあ、こんなことになるなら、孫が出来る前にあの腹黒ヨメ(ツマ子)を叩いて叩き殺してやりゃあよかった……!」
と、親父は声を荒げた。
俺の息子のナガオは昭和29年(1954年)生まれだ。そうして2歳違いで、娘のオトも生まれてきた。
「親父、俺だってあいつ(ツマ子)と結婚しなきゃよかったと思うけどさ、俺が『ツマ子さんが好きだ。一生のお願いだ』と親父に縁談をまとめるように頼み込んだんだよ。ツマ子だけじゃなくて、俺だって悪かったんだよ……。」
と、懺悔した。
「あーっ、そうだっ…ゴホッ、ゲヘッ!」
と、親父は突然大きな咳をした。
親父は背中を丸めてせいているが、まだ鼻や口の中に砂や小石や木の枝の破片が残っているらしかった。
これじゃあ、苦しくてツマ子への憎しみを忘れられなくても無理はない。親父は口の中の泥を指で掻き出した後、細いヒモのようなものを摘んで、ゆっくり、ゆっくりと喉から引っ張り出していた。俺は6尺(約180cm)近い巨躯の親父の背中を、優しくさすってやることしかできなかった。
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「……ありがとう、とりあえず大丈夫じゃ。」
とにかく、次は俺が洗いざらい話す番だった。
「俺は単なる病死だよ。心不全だったんだ。」
と、親父の切なそうな顔を見て呟いた。
「ただの心不全なんかではなかろう。おまえもあの嫁(ツマ子)に殺されたようなもんじゃないか?わしはこの家の屋根からみとったぞ、何もかも。」
低空には黒っぽい分厚い雲が広がっているが、空気を割るような凄まじい雷鳴が聞こえた。パラパラと雨粒が落ちてきたと思ったら、瞬く間に大粒の雨嵐となり、ドコドコ、バラバラバラと音を立てて降り始めた。
親父と俺は、昔一緒に暮らしてた家の軒下で雨宿りを始めた。その場所で、俺はツマ子から受けた仕打ちを、親父にポツリポツリと話し始めた。
「俺は元々糖尿持ちだったんだ。ある時不整脈だと思って病院に行ったら、心臓血管バイパス手術が必要だと言われてさ……。」
「手術の説明を聴いたが、あまりに大がかりなものじゃから、すぐに決断できなんだんじゃな?」
と、親父は真面目な顔で俺に問いかけた。
「そうだよ。その頃にはツマ子も緑内障だの不眠症だの病院に通いづめで、人工股関節になっててな。俺は36歳から会社勤めを始めたから、金銭面で苦しかったというのもあった……。」
「結局、おまえがバイパス手術を受けることはなかったのじゃな?」
「そうだよ。12時間にも及ぶ大手術で、人工心肺装置を使って一時的に心臓を止めるとか言われてよ。運悪く手術のショックで脳梗塞を起こす人もいると説明されたら、誰だって考える時間が欲しくなるだろう?一方でさ、その時はツマ子だって動脈瘤を取ったばかりだった。巷でよく言う夫源病とか病老介護ってやつかなあ。俺が寝てばかりで世話が焼けるとか言い出して……。」
























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