これは私が20歳代後半の時に、本当に体験した話だ。
そこは中部地方に属するT市で、人口は60,000人から70,000人程度だ。
それは10月の薄曇りの昼下がりだったが、厳しかった残暑も和らぎ、過ごしやすい気候になった頃だった。
当時、私はT市の営業所で事務作業やお客様の応対などを担当していたが、所長から綺麗に折ったチラシ200枚を渡され、自転車で近隣のお家にポスティングをするように頼まれた。
ポスティングはそれなりに体力を使うが、他所のお家の庭先で可憐な花を見つけたり、可愛い猫さんに逢えたりするので、当時の私にとってはちょっと楽しい仕事だった。
敷地内がきちんと整頓されているアパートやマンション、または小綺麗なお家の郵便受けに、私はチラシを入れていった。そうして仕事を始めて20分ぐらい経った頃、黒っぽいつば付き帽子をかぶり、眼鏡をかけた見知らぬ男性が自転車に乗って、私の後について来るのに気がついた。その時は、私はその男のことを特に気に留めなかった。それからも私は色々な道を走り、チラシを数十枚配ることができた。
そうして再び県道に出ると、少し前に見かけた、30歳代ぐらいの黒帽子の男性にまた出くわした。のんびり屋の私はこの時点では、
(ああ、さっき見かけた人か)
としか、思わなかった。
県道とはいえ山道や下り坂もあり、長ったらしい信号や踏切もある。もちろん、途中で何度も右左折もする。それでも、あの眼鏡の自転車男が私の後方をついてきていた。
最初に彼を見かけてから、すでに20分が経過していた。もうこれで3回目だ。いくらお気楽な私でも、イヤ〜な胸騒ぎを覚えた……。
私は少しスピードを上げ、わざと狭い道を走ったり、別の団地の中に入ったりして、なんとかあの黒帽子のオッサンを巻こうとしたーー振り向くと、あの怪しげな男がまだ後ろを走っているではないか!しかも、そいつはこんな電柱が多く凸凹した狭い道を、へっちゃらでスイスイ走ってくるのだ!
私の感じた不穏な予感は、やはり的中していたのだ!30分以上も複雑に交わった道を走ってきたのに、同じ人に5回も出くわすのはどう考えても変だ!
(やっぱりこいつは不審者だ!ずっと、私を追いかけていたんだ!)
ーーもう呑気にポスティングなどやっている場合じゃない!
心臓が急に縮こまり、バクバクと早鐘を打ち始める。頭にドクンドクンと血液がさかのぼる。脳内アラートまでもがブォーン、ブォーンとけたたましく鳴り響いているのを感じ、私は一目散に逃げ出した。道の凹凸にはまったり、歩行者や他の車と接触事故でも起こしたりしたら元も子もないから、細心の注意を払って、力の限り自転車をこぐ。私が全身の筋肉を使い、精一杯スピードを上げても、そのならず者は涼しい顔でぐぃぃんっと加速し、車間距離を縮めてくる。
(助けて誰か!怖い!怖い!)
汗が止まらない。鼻水が垂れて、口の中に入る。自分のだけどしょっぱい、汚い、おえええ。
その自転車に乗った変態は、私のビビった顔がよっぽど面白かったらしく、ニタアァ〜と嫌らしい笑みを浮かべていた。そいつはついには口から涎まで垂らしながら、
【ほらほら、追いついちゃうぞ〜!】
と、大声で私をおちょくってきたのだ!
(とにかく走れ、逃げろ、振り返るな!)
ああっ、くそう、息が切れる。太腿の筋やら脇腹やらが痛む。あっっ、危ない!足元にも気をつけなきゃ!左手側の側溝のコンクリート蓋が割れて、水路が見えている。歩道と路側帯の境い目にぬかるみがある。こんな所にはまってしまったら、自転車ごと滑って横倒しになる。運が悪ければ、そのまま後ろから走ってくる車とぶつかってしまうかもしれない!
(とにかく事故るな!頑張れ、私!)


























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