その後、傷跡の件とはまったく別の件でかかりつけの医者のところに行った。月に一回くらいは食生活などについて注意を受けながら、薬を処方してもらわなければならない。聴診器を当てる段になって、上の肌着をたくし上げるとあの傷跡が見える。
「どうしたんですか、これは。ひどい怪我ですね」
「厭な夢を見て、目を覚ましたらついていました。寝ぼけて自分でやってしまったんでしょうかねえ」
「そうですか…」
「ここにもありますよ。ほら、左の手首です」
「これも、同じときについた傷ですか」
「そうだと思います」
「…」
先生は急に黙ってしまった。しばらく黙って傷を見ていた先生が、「専門ではありませんが…」と前置きしてから言った。
「……さん、お宅では猫は飼っていませんか」
「え。いや、飼ってないです。妻が猫アレルギーですし、それにいまのアパートではペットを飼育できませんからね」
「じゃあ、動物ではない、と」
「ええ、動物に引っ掻かれた記憶はないですね」
「いえ、すみません。どうしても動物がつけた傷のように見えたものですから。まあ、化膿しないように塗り薬も出しておきましょう」
先生は、なぜ「動物」、それも真っ先に「猫」と言ったのだろう。何だか気味が悪くてそれ以上は私も深く尋ねなかったため、いまもってわからない。
最後にもう一つだけ、よくわからないことがある。
私はふだん車で片道一時間以上かけて通勤している。運動不足が気になって、休みの日くらいは散歩がてらぶらぶらと近所を歩くことにしている。あの日もたばこを買いに出た。いつもはあまり通らないような道を選んで、歩きまわる。そこで、見つけてしまった。
「貸事務所」の札が下がった低い空きビルと、舗装されておらず雑草の目立つ駐車場のあいだに、古い家が一軒あった。ふだんは滅多に通らない道である。それなのに、その古い家に私はハッキリと見覚えがあった。夕暮れ時だか、明け方だかわからない、あの薄ぼんやりとした時間に、夢のなかで婆さんに会ったあの家に相違ない。してみると、私が見た、経験したあれは夢ではなく、現実だったのか。
しかし、飲んだ帰りに通りがかることも考えづらいような道である。最近このあたりを通った記憶はまったくない。私は恐る恐るその家に近づいてみた。表札は出ていないようだ。夢で見たのとまったく同じ磨ガラスの引き戸。むかしながらの呼び鈴が、戸の左側に付いている。夢と唯一異なるのは、黄色と黒の縞模様になった、立入禁止のロープが入口付近に巡らしてあることだ。
この様子だと、ひとは住んでいないだろう。私はそう自分に言い聞かせた。胸のあたりがざわざわしている。怖い。怖いけれども、確かめないともう不安で帰れない。私はおずおずと左手の人差し指を呼び鈴のボタンに伸ばした。鳴らない。通電していないようだ。夕暮れ時になって、まわりの民家には灯りがともっているけれども、ここは真っ暗。車も停まっておらず、敷地内には雑草が伸び放題。空き家だ。ここは空き家なのだ。それでも、あの昼でも夜でもない逢魔が時に私はここに来て、確かにあの婆さんを呼び出してしまった。あれはだれだったのだろう。視線を感じて、ふと顔を上げると、真っ黒な可愛げのない野良猫が黄色い目でこちらをじっと見ていた。
尚、あれから二週間ほど経つが、傷跡はいまもって私の左手首と右脇腹に残っている。
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めっちゃ文章うまいっすね
この作者さんの話全部面白くて好き
実力では間違いなく1位だと思う
他の人の投稿はなんでこれが?って話が上位にあったりするから不思議