上席監視官
投稿者:タングステンの心 (9)
その日も、私は或る空港の職員通路を歩いていました。
統括監視官付・旅具通関部門検査官。当時、私は税関に所属する検査官であり、外国から日本に入国する手荷物を検査して輸入許可をするのが主な仕事でした。ときには検査の過程で違法薬物が出て、逮捕者が出る事案に至ることもありましたが、今回はそういう意味での怖い話ではないのでまた別の機会に譲ることにします。
私は当直勤務をしている駆け出しの検査官(事務官、いわゆる係員。企業で言えば役職ナシの平社員)でしたが、日常業務で行動をともにする班のなかには、数人の係員のほかに、何人かの監視官、それを束ねる上席監視官、さらに班全体の責任者である統括監視官がいました。
旅具検査官はみな制服勤務であり、全員がまるで警察官か警備員のような制服と階級章とを身に付けて執務をしていました。階級は「バー」と呼ばれる横棒の本数と、「スター」と呼ばれる星(正確には桜の花だが、みなそう呼んでいた)の個数で表示されていました。バーが一本だと係員であり、同じ係員であっても経験年数や採用区分によってスターの個数が異なります。当時の私は「ワンバー・ツースター」(横棒一本と星二個)、駆け出しの大卒職員の階級でした。監視官以上は「ツーバー」(横棒が二本)となり、それぞれ星一個で監視官、星二個で上席監視官、星三個で統括監視官すなわち現場レベルでの最高階級となります。
要するに、知らない職員でも階級章を見ればどれくらい偉いのか一目瞭然でした。
当時の私は四班に配属されたばかりで、ともに当直勤務を担当するこの道二十年のベテラン監視官にどやされる毎日を送っていました。スキンヘッドの見るからにいかつい印象のオヤジだったのですが、今回はそういう怖い話でもないのでそれも詳しい内容は省くことにします。
私が恐ろしいと思ったのは、穏やかな、否、それどころかむしろ一言も直接には口も利いたことのない或る上席監視官の話です。
私が初めて彼に気づいたのは、統括監視官事務室いわゆる統括官室にいる所属統括官に報告に行ったときのことでした。そこは、当直勤務の統括たちが三人ほど詰めて世間話をしながら部下の報告を随時待っている事務室です。統括官室なので、当然、ふつうは統括しかいません。しかし、視界の隅、奥のデスクに座っている八班の統括官の傍らにひとりの上席が特に報告をするでもなく立っていました。
「あれ、八班の上席ってあんなひとだっけ…」
ふだんはずんぐりとした南国出身の浅黒い上席が八班で勤務しているのですが、今回はどういうわけか、細面で眼鏡をかけた、やや神経質そうな笑みを湛えた男性が統括の側に立っていました。階級章からすると、男性はやはり上席です(正確には上席に昇進する寸前に俸給が上がった監視官かもしれないが、マア、細かいのでその点はいまは措いておきましょう)。そのときはあまり深く考えずに、「転勤かな」くらいに思っていました。
検査の合間にみなが詰めている待機室に戻って、先輩のヤマザキ監視官(仮名)にそれとなく訊いてみましたが、「こんな時期に異動はないだろ」という素っ気ない返事があっただけでした。実際、八班の上席はふつうに勤務をつづけていて、いなくなる気配も噂もありません。それでは、あの統括官室にいた見慣れない上席はだれだったのでしょうか。
私は彼を統括官室や待機室の隅、ロッカールーム、通路などあちこちで見かけるようになりました。いったん気になりだすと、よく会うようになったような気がしただけなのかもしれませんが、本当に頻繁に見かけるようになったのです。しかし、その割にはこの支署に異動になってから半年が経とうという私にも、彼がどの班の上席なのかはいっこうわからず、そのことが不思議で仕方ありませんでした。
当直のタイミングがちがうどこかの班の上席かとも思いました。上席は統括の命を受けて、空港の検査場内で実務を取り仕切っており、監視官も係員も全員、その日に当直になっている上席たちの指示で動きます。日勤の日、当直の日、どこかで必ずすべての班の上席の指示で勤務する機会があるわけです。ということは、ふつうに勤務していて、知らない上席がいる、ということはあるはずもないのでした。もうすぐ上席に昇進する監視官である可能性も考えましたが、そもそも、その旅具検査部門に所属している統括官以下すべての職員の名簿を見ても思い当たる人物はいません。
それでも、あの謎の上席はつねに私の視界の端をずっとちらちらしていました。
もちろん、そのときどき、待機室やほかのロッカールームで私はその話をしました。そして、上席を見かけるたびに「ほら、あの上席…」と言おうとするのだが、そのたびに、件の上席官は姿を消している。「誰もいないじゃないか」、「おまえ大丈夫か」、「疲れているんじゃないか」、「それじゃあ当直明けたら飲みに行くぞ」と話はどんどん逸れて行ってしまうのが常でした。当時、私の主な直属上司だったヤマザキ監視官には真顔で心配されて参ったのを覚えています。
薄笑いを浮かべた上席は私の視界に入ったとたんにふっと通路の奥に行ってしまうとか、ドアの向こうに行ってしまうとか、統括に報告していて話しかけられないようなタイミングでほかの統括のところに立っているとか、どうあっても話しかけることができません。不思議と目が合うこともないので、合図を送ることもできません。
別にこれといって実害があるわけでもないのですが、気味が悪い。そういうすっきりしない状態が二週間もつづいたころだったでしょうか。
当直ではいっしょにならない五班の先輩係員ハリガイさん(仮名)が私のところにやってきて深刻そうな顔で言いました。
「ちょっといい?」
「はい、何でしょう」
「最近見るひとってさ…」
「ああ、あの上席ですか。誰も信じてくれなくて」
「やっぱり上席なんだ」
「はい。階級章を見るとたぶん上席だと思うんですけど」
「ふうん…」
「あの、なにかご存じなんですか」
「いや、実はね…」
ハリガイさんは失礼ながらちょっと暗い印象の、でも後輩には優しい感じの先輩係員でしたが、よくよく話を聞いてみると実はオカルト好きな一面があって、怪談話を好むということでした。それで、私が異動して来る前に一部の係員たちのあいだで噂になった怖い話があり、私の体験がそれに関連するかもしれない、というのです。
それによれば、われわれよりもずっと前(詳しくはわかりませんが、十年とか二十年くらい前)に、過労で亡くなった上席があったというのです。当直勤務中に、過労がたたって心不全かなにかで仮眠室で亡くなっており、朝起きてこないことを不審に思った所属班の係員が先輩に言われて起こしに行くと既に冷たくなっていた、と。税関の勤務体制が当時それで問題として取り上げられ、国会でも質問が出たとかいうことでした。それ以来、数年にひとりくらいの割合で、その上席の亡霊に憑かれる者が出るとか出ないとか。
何度見かけてもいっこうに話しかけることのできない謎の上席は、実はこの世のものではないかもしれない。いま思えば、「学校の怪談」と同じような水準の話でしかなく、大のおとなが真に受けるような話でもなかったのだろうと思いますが、私もじわじわと追い詰められていたのかもしれません。妙な人物を毎日のように見かけるのに、だれもそれを信じてくれない。そんななか、「もしかして…」と声をかけてくれるひとがいた。そのときは、なにか解決に向かっているような、そんな気さえしました。
専門職の話はとても興味深いですな。
面白かったです
しかし文章うまいすなぁ
タメになる話でした
リアル感がエグい
引き込まれる文章と内容でした。
結果的に退職されよかったと思います。
普段あまり聞くことのない話
怖いというより興味深い