「ちょっと母さん買い物いくよ、お酢切らしちゃったから。」
呆気なく俺を1人にして出ていく母の背中を見送って、いよいよ本当に1人になると、本格的に心細くなった。
それでも考えることは1つだけだ。
今なら寝室を覗ける。心臓が高鳴るのを感じた。
正直怖いし心細いが、勇んでリビングを後にする。
今は昼。廊下も明るく、視界は良好。今なら……
ここで1つ疑念が浮かんだ。もし、母の寝室に、本当に人間の死体があった時、俺は一体それをどうすればいいのか。俺は母を警察に突き出せるのか。
足を止めて、考える。考えて、ぷっと吹き出しそうになる。人間の死体などあるものか。あっても猫や犬の死体だろう。リビングを後にして、母の寝室への廊下に差し掛かった時、昨晩と同じ、強烈な死臭に顔をしかめる。それでも歩みを停めず、母の寝室の方に向き直る。呆気にとられた。まただ。また誰か立っている……。
やはり母だ。母が背を向けて立っている。なぜだ。さっき買い物に送り出したばかりなのに。
心臓が破裂する勢いで鼓動する。全く意味がわからない。やはり母は化け物だったのかもしれない。
足が竦んで動けない。
動けない体で、段々と理不尽さに腹が立ってきた。明るい時間で、気持ちが強くなっていたのかもしれない。
もしも死体を隠しているなら、それは母が悪い。なぜ俺がこんな思いをする必要があるのか。勇気を振り絞って、背を向けて立つ、”母のようなもの”に、叫ぶ。
「おい!なんなんだ一体!」
母はビクッと体を震わせて、ゆっくりと、こちらに振り返ろうとする。
死臭が、とてつもなく強くなる。まずい。これは、まずい。
手で口を抑える。ダメだ、吐きそうだ。それでも俺の視線は母に釘付けになっていた。
ゆっくりと振り返った母の顔は、安心の象徴なんかじゃなかった。強烈な死臭の発生源は、間違いなくこいつだ。母の顔は、母の顔は。優しくて暖かい、僕のお母さんの、顔は。腐って、腐り果ててウジが湧いて、
ぐちゃぐちゃと音を立てながらポロポロと、ウジがこぼれて、眼球は無くて、 それで、それで。
腐った母は辛うじて口と判る機関を動かして、
「ごめんね」と、ハッキリとそれだけ言って、ふっと消えた。
死臭は弱くなる。
俺はその場で全部吐いた。今朝のトーストも、コーヒーも、昨晩のハンバーグも。
全部吐いて、何が何だか分からない頭で考えて、考えに考え抜いた結果、母の寝室の扉を開けた。
母のベッドは、色んな体液で黒く染まり、その上には母が寝ていた。寝ている母の周りにはウジが湧いて、ハエが集っていた。
もう吐くものは無かった。ただ、無言で膝をついて呆然とした。死臭どころか、なんの臭いも分からなくなっていた。
背後に気配がして、ぐったりと振り返ると、母が、廊下の向こう側、俺の部屋の扉の前に、買い物袋下げて立っていた。驚くほどの虚無を携えた顔をしていた。
目の奥に光はなく、なんの感情も分からなかった。
歩く動作もせず、まっすぐ、そのままの姿勢で、滑るようにスーーーっとこちらに近づいてきた。
俺はなんの抵抗もしなかった。



























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