いよいよ彼らがわたしの隠れている斜面のあたりにやってきた。灯りを消しているのでどんな背格好なのか正確にはわからないが、ちょうど雲から顔を出した満月の明かりがスポットライトのように、連中を照らし出した。
人数は6人。老若男女が入り混じっており、6人とも不自然なほどに背が低い。男性でも160センチメートルはなさそうで、女性は140センチメートル前半程度だった。ロクなものを食べていないらしく、手足は枯れ枝のように細かった。男女ともに手入れのされていない蓬髪で、男は首回りまで濃い無精ヒゲを生やしている。この日は4月上旬だったので朝夕は厳しく冷え込むはずなのだが、彼らがまとっているのは甚平か作務衣のような薄い和服だけだった。
なにより不思議なのは、彼らが日本語を話していなかったことだ。沖縄や青森のように関東から外れるほど、方言ははなはだしくなる。そうはいってもまったく聞き取れないはずはないし、なにより青川峡は日本のど真ん中である。
彼らの話し言葉は英語でも中国語でも韓国語でもなかった。それはまぎれもなく独自の言語であった。
6人の男女は道なき道をまるで通勤路のように歩き、わたしには気づかないまま鬱蒼とした樹林帯へ消えていった。わたしは時間を忘れて彼らに魅入っていた。幽霊などでは絶対になかった。狐狸や怪力乱神の放つ妖しさとは無縁の、確固たる実体を持った人間だった。なんらおかしな点はない。明治か大正あたりからタイプスリップしてきたような風貌を除けば……。
10分以上も斜面の陰に釘づけにされていただろうか。連中が戻ってこないことを何度も確認したあと、わたしはしゃにむに沢を下り始めた。道に迷ったときは尾根を登るのが鉄則とされているけれども、尾根の方に行くと彼らと鉢合わせする可能性があった。
沢を下ればやがて里まで続く本流に地形上必ず合流するので、弥縫策として有効ではある(あくまで低山域に限る。滝が頻出する高峰での沢下りは自殺行為に等しいとだけ、付記しておく)。
沢を下ること30分ほどで、視野いっぱいの広大な河原に出た。〈山と高原〉地図によればこのあたりまで林道が通してあるはずなのだが、舗装道路などどこにも見当たらない。想定とは異なる流域を下ってしまったのだろうか?
しかしすでに標高450メートル付近まで下ってしまっている。登り返す気力も体力も残っていない。正しい場所にいるのだと自分に言い聞かせて方角を東に定め、拳大の石が転がる歩きにくい河原を、無心でひたすら歩き通した。
沢が蛇行しているために何度も渡渉を強いられ、腰あたりまで水没すること多数。フラフラとゾンビのごとくさまようこと1時間弱、20:15ごろ、ついに林道の終端部分を発見した。あとでわかったのだが、林道は記録的な土石流によって河原の下に埋まってしまっていたらしい。地図との相違はこれで説明がついた。自分でも信じがたかったのだが、正しいルートを歩いていたのだ。
ここまで降りてこられれば、あとは車道を辿るだけだ。張りつめていた緊張が解け、思わずグッタリと座り込んでしまった。活を入れて立ち上がり、青川峡キャンピングパークの賑わいを横目に見ながら林道を歩き通し、孫太尾根の登山口である墓地に21:15、帰還。実に11時間以上にもわたる死闘であった。
登山ギアをリアハッチに放り込み、運転席に座ってエンジンをかける。墓地を臨む孫太尾根登山口の殺伐とした景色が、ヘッドライトに照らされ不気味に浮かび上がっていた。
* * *
鈴鹿山脈の滋賀県側には、昭和中期くらいまで林業で生計を立てていた山岳の集落が多数点在していた。今畑集落、茨川村、御池鉱山開拓地、保月集落など、いまでも家屋の残っている村落もある。それらすべてが廃村になってし久しいけれども、このような土台は山岳の漂泊民である〈サンカ〉たちにとって、おあつらえ向きの住みよい環境だったのではないか。
それほど標高を下げることなく集落と物々交換ができる環境ならば、〈サンカ〉が意外なほど遅くまで――少なくとも上記の村々が廃村になった昭和中期くらいまでは――存在していたとしてもおかしくはない。
わたしが遭遇した〈彼ら〉とはもしかしたら、山に魅入られて文明から取り残された現代の〈サンカ〉だったのかもしれない。

























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