2024年、鈴鹿山脈の主峰である藤原岳(1,144メートル)に至る登山道のひとつが、無期限封鎖された。ロックされたのは孫田尾根と呼ばれるマイナーなトレイルだ。
藤原岳は東面の大部分を石灰の採掘場として削られて久しいのだが、今般開発の魔の手がさらに伸び、孫田尾根にまで及ぶことが決まった。登山道の封鎖は発破工事の安全性を担保するため、という名目だそうだ。当然このトレイルを愛してやまない登山者たちからクレームの嵐が飛び交ったものの、企業開発は娯楽に優先するとし、いなべ市もこれを容認している。当該自治体に法人税やら雇用促進やらの恩恵があるのだから、無理もないだろう。
わたしは孫田尾根には浅からぬ因縁がある。登山道封鎖のニュースを遅まきながら知ったわたしは、あの近辺で体験した不可解なできごとを久しぶりに思い出した。
このエピソードを消えゆく孫田尾根登山道へのはなむけとしたい。
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日本は国土の7割が山岳地帯である。広大な平地は濃尾平野や関東平野などごく一部であり、人びとの住む集落のすぐ隣にはなじみ深い里山があった。
日本人にとって古くから山はごく身近な存在であり、米が不作となった危急存亡の秋に、山の幸は農民たちに少なからぬ恩恵を施した。ゼンマイやワラビが食物繊維を、シカやイノシシなどのジビエが貴重なタンパク質を提供しただろう。
そうした山岳生活を徹底して実践していたのが〈サンカ〉である。〈サンカ〉は定住地を持たない流浪の漂泊民で、山岳地域限定のジプシーのようなものだ。ルーツは諸説入り乱れて定かではないが、大和朝廷の支配に逆らった〈まつろわぬ民〉であるとか、前科者が徒党を組んだ犯罪者集団であるとか、その淵源は謎に満ちている。
彼らは明治維新前の宗門改帳や宗旨人別帳といった寺院管理の戸籍にも登録されておらず、狩猟採集で食料を調達し、自給自足を旨とするライフスタイルであったらしい。食物の激減する冬季には手作りの竹細工や荒縄などの小物を近隣の集落と物々交換し、越冬の足しにしていたようだ。
そんな彼らも終戦を皮切りとして、徐々に文明世界へと帰化していった。終戦当時1万人程度は存在すると推定されていた〈サンカ〉も、いまではその痕跡すら見られなくなった。
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12年ほど前の4月、わたしは例によって山に入っていた。
登山を始めて3年ほどが経ったあたりだっとと思う。秋から春までは自宅からアクセスのよい鈴鹿山脈に入り浸り、同山域がヤマヒルの出没で事実上の入山禁止になる夏だけは(やむをえず)日本アルプスに逃げる。いまでも続いている登山スタイルが確立されたのが、ちょうどこのころだった。
その日、わたしが辿ったルートは以下の通りである。
孫田尾根登山口~多志田山~藤原岳~西尾根へドロップ~茶屋川遡行~土倉岳~茨川廃村~迷い尾根~治田峠~青川峡ルート~青川峡キャンピングパーク~孫田尾根登山口
この山域に慣れ親しんだ方ならわかると思うが、われながら気が違っているとしか思えないハードなプランであった。
無理を通せば道理が引っ込むの言葉通り、案の定山行は誤算が連続した。西尾根へのドロップまでは順調だったのだが、茶屋川の遡行は想像を絶する難路であった。沢が東西に大きく蛇行しているせいで道はしょっちゅうどん詰まりに行き当たり、その都度渡渉を強いられることになった。三筋滝の高巻きでは古びて擦り切れそうなフィックス・ロープを頼りに、絶壁をよじ登るような場面もあった。
難路の茶屋川遡行をクリアするも、ようやくたどり着いた土倉岳への登りは踏み跡すら皆無の廃道と化しており、精神力は削られるいっぽうだった。
茨川廃村からも試練は続いた。迫りくる日没に焦っていたわたしは伊勢谷ルートを見つけられずに適当な尾根を登ってしまい、これが道迷いを深刻化させる。右往左往しながら這う這うの体で迷い尾根に辿り着いたときにはすでに17:30、あたりは薄暗くなり始めていた。この時点でわたしはもう、精も根も尽き果てていた。
糖の不足は判断力を著しく鈍らせる。日没が目前に迫った薄暮の時間帯ならば、多少登りがあってさらなるアルバイトを強いられるとしても、行きで通った孫田尾根経由で下山するのがマストである。登山の格言〈往路に勝る安全な道はない〉を遵守すべきであった。
ところがわたしはこれ以上登りをこなす気にどうしてもなれず、孫太尾根方面への北上ルートを切り捨て、下り基調の治田峠ルートをチョイスしてしまった。これが決定打となった。
アップダウンのある稜線を通って治田峠に着いたのが18:15。あとは峠を下るだけだ。ところが入り口には工事用のトラロープが張られており、「土石流により通行止め」と書かれた看板が建っている。わたしに限らず、山屋はこの手の警告をたいてい無視する。どれだけ現場が荒れていようとも、徒歩で踏破できないような道はないという確信があった。
トラロープを潜り、軽快に下っていく。冒頭はなんの問題もなかった。落ち葉こそ深く堆積していたものの、尾根につけられた道は明瞭で目をつむっていても辿れそうだ。
ところがそれは罠だった。トレイルがまともに残っているのはほんのさわりだけだったのだ。沢が近づくにつれて登山道は荒れていき、ついには完全に踏み跡が消失してしまった。立ち入り禁止だからなのか、ルートを示す木々に巻かれたリボンもほとんど見当たらない。
治田峠の警告は正しかった。当時のわたしは沢・尾根といった地形を読むレベルに達しておらず、登山道の上をベルトコンベヤよろしく流れるのがせいぜいの初級者であった。そのベルトコンベヤがないのだ、当時のわたしになにができただろう? 焦燥感が心臓の鼓動を早め、頭の中では〈早く下山しなければ〉のフレーズがくり返し鳴り響く。
間もなく追い打ちをかけるように日没が訪れる。わたしは闇のとばりが下りた山中に1人、ポツンと取り残されてしまった。
パニック発作を起こす直前のギリギリの精神状態を保ちながら、沢に沿ってあてもなくさまよう。ヘッドランプに浮かび上がるのは丈の低い藪の茂る道なき道で、正規の登山道から外れてしまったのは確かなようだ。
そのとき、不意に人の声が聞こえたような気がした。それも複数の。天の祐けだと思った。こんな時間にこんな山奥でなにをやっているのかは不明だが、このあたりの地理には明るいに違いない。傾斜の急な斜面を無理やりトラバースしつつ、話し声がするほうへヘッドランプの灯りを頼りに突き進んでいった。
徐々に声がはっきり聞こえてきた。ところが妙なことに、彼らがなにを話しているのか一向にわからない。ガヤガヤと複数の人間が確かに会話をしているらしいのだが……。
わたしはようやく正気を取り戻した。日没後の廃道になった登山道に得体の知れない集団がいる。とてもこれ以上近づく気にはなれない。ヘッドランプの灯りを消し、息をひそめる。
























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