とにかく墓参りを終え、母と私は車で祖父のいる病院へ向かった。母の里から祖父の病院までは、車で1時間40分程かかる。車の中で、私は母に墓所で体験した不思議な出来事を詳しく話した。そうしたら、曽祖父の右隣にいた女性はやはり曾祖母であり、曾祖母の右手側にいた女性は、祖父の早世した連れ合い(私の祖母)だったらしい。
『また何か辛いことが合ったら、いつでもここに来なさい。』
母もこの言葉の意味をよく分からないと言った。無論、今日に至っても分からぬままである。
墓所で先祖と交わした【あの感動的な会話】は、いわゆる「虫の知らせ」などではない、と私は自分に言い聞かせていた。曽祖父からの言伝は祖父に伝えるつもりであったが、祖父がいなくなるなんて考えたくもなかった。
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私はそんな不安を抱えたまま、病院に到着した。病室に行くと、珍しく母方の祖父がどんぐり眼でベッドに横たわっていた。様子からして、祖父は首を長くして、母と私を待っていたらしかった。
祖父は頭も声もしっかりしていたが、やはり相当体力を消耗していると思われた。前年の暮れに一時死の淵を彷徨ったのだから、当然である。それでも強靭な意思でもって、祖父は生還してくれた。そんな祖父は、母といろいろな話をしていた。私は心身ともに弱り込んでいる祖父を見て、心痛くなった。老いや病を得るのは人間の宿命であるが、親しい人が病み衰えていくのを見るのは、とても哀しいものである。
私はずっと母の隣や斜め後ろにいたが、ある時祖父が母に私の素性を尋ねた。やはり、私のことを忘れてしまっているのだ。母が、
「この子は〇〇(私の下の名前)。私の子で、お父さんの孫よ。」
と言うと、祖父は何かにはっと気づいたように見えた。
私は祖父の顔を見つめながら、曽祖父からの言伝を自分の言葉で一生懸命に伝えた。こんなにも体が弱っている人に、”大丈夫だよ”なんてとても言えやしない。
この時、私の両眼には先祖と意識を交わした「しるし」のようなものが刻まれていたような気がした。無論母には見えていなかったが、祖父にはその「紋章」が見えていたのかもしれない。どういうわけか、祖父は私の顔をとても長いこと見つめていた。私は気恥ずかしくなり、途中でそっぽを向いてしまったが、祖父は、
「うん、いい子だ。この子はいい子だ。」
と、母に述べた。
そうこうするうちに、誰そ彼時になった。母と私は名残惜しかったが、祖父に別れを伝えた。この時母と私は、
「必ずまた来るからなあ。長生きしてるけど、もっと長生きしてなあ。」
と伝えたと思う。
私たちは、このあと何が起こるかも知らず、祖父にとても残酷なことを言ってしまったと思う・・・・・・。
家に着くと、母と父方の祖母が切ないおしゃべりを始めた。私は、祖母がしんみりとして、
「△△(母の実家がある場所名)のおじいさん、もう長くないかもなあ・・・・・・。」
と哀しそうにつぶやくのを聞いてしまった。
私はそれでも、【母方の先祖の墓所での出来事】が忌み事の前触れであるなどと考えたくもなかった。
夕食後、私は愚かにも、父方の祖父に【母方の先祖と話をいたこと】を詳しく話した。そしたらその一時間後くらいに、祖父は高熱を出した。翌日、祖父はそのまま入院することになった。そして、その日の23時頃、母方の伯父から最も恐れていた知らせがあったー母方の祖父が身罷ったというのだ。
父方の祖父は数週間入院した後、無事に退院することができた。そして、医師の予想を大きく超えて、翌年の暮れまで生きた。
お正月はお盆と似た意味を持つ。人間は誰でも死する日を選べない。よって、新たに死出の旅に出た人を迎える準備で立て込むことが、常夜の国でもあるのかもしれない。そこへ、母と私が墓参に来た。私たちは母方の先祖の冥福を祈るという形で、その「お出迎え」の準備を手伝ってしまったのかもしれない。

























続きはあるんですか?
沈丁花です。初心者のために短い後編をこしらえてしまい、かえって読みにくくしてしまいました。皆様に、より読みやすいと思っていただけるように、【前編】と【後編】を一緒にしました。
頑張ってください!よかったです
沈丁花です。コメントありがとうございます。とっても嬉しいです😊🌸
沈丁花です。一部脱字と誤字がありましたので、訂正しました。間違いを発見し、直すのが遅くなる、誠に申し訳ありませんでした。