その日見た夢の内容は、よく覚えている。
どこかの外出先で、私は恋人と遊び呆けていた。それはとても穏やかで、幸せな時間と形容して間違いないひと時だった。
しかし、何かのタイミングで、私はこの世界が夢の中だと気付いてしまったようだ。
残念ながら、目覚めるときにはこの世界と別れなければならない。折角幸せな気分に浸っていたのだが、仕方あるまい。大体こんなことを考えていたように思う。
その瞬間、夢の雰囲気が一変した。
周囲のあらゆるものの視線が、一気に私のもとに集まる。風景の一部として存在していた全てが、私をじっと見つめる。
それはまるで、気付いてはならないタブーに私が気付いてしまったかのような、冷たい視線だった。
そして、私の周囲にいた全ての人間が、私に向かって歩き始めてきたではないか。恋人も、周囲の無関係な者も、歩み寄るすべてのものの表情には穏やかさなど欠片もなく、私に対する敵意のみが渦巻いていた。
私は戦慄した。いくら夢の中とはいえ、このまま接近を許すと、恐ろしいことになりそうな気がする。一刻も早く、目覚めなければ。私はその努力を試みた。
次第に、聞き慣れた日常の音が聞こえてくる。良かった、何とか現実の世界へ戻ることが出来そうだ。
所詮、夢は夢。一旦目覚めてしまえば、何も恐れることはないのだ。
しかし、私は聞いてしまった。いざ夢の世界から去ろうとする瞬間の、恋人の声を。
「貴方って、本当に夢から覚めたことがあるの?」
聞き慣れたはずの声なのに、地の底を這うように低く響く声だった。私はその真意を問おうとしたが、夢の世界は私を手放したらしい。次第に周囲のうごめきとおぞましい音がフェードアウトし、そのまま目を覚ましたのだった。
目覚めたとき、私はソファーの上にいた。傍では同居している恋人が、掃除をしているのが見える。どうやらいつの間にか昼寝していたらしい。
「どうしたの? ずいぶんうなされていたよ」
笑いながら話しかける恋人は、確かにいつもと変わりない姿で、変わりない声を発していた。
夢の輪郭は、日を追うにつれてぼやけていくものだ。
それなのに、この夢はいくら時間が経っても色褪せることなく、それどころかより鮮明な記憶となり、今もはっきりと残ったままだ。
あれ以来、私はふと考えることがある。
もしかしたら、私が生きているはずのこの世界も、夢の世界なのではないだろうか。
そうだとしたら、私がそれを強く意識した途端、ここにある世界中の万物が、今度こそはとばかりに表情を一変させ、その時こそ私は本当の恐怖を見ることになるのかも……。
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