わしとケイの物語
投稿者:バクシマ (39)
地方のどでかいドラッグストア。そこでいつものようにアルコールを摂取するためだけの酒を買った。そしてまだ店の自動ドアを出て数歩の距離だというのに、購入したばかりの4ℓ大容量ウイスキーボトルの封を開け、辛抱たまらず一口含んでしまう。つくづくアル中だ。自嘲する。
定職に就かず、趣味もない。恋人だっていない。
空気の入ったペットボトルを、意味もなく手でベコベコと揉みながら、だだっ広い駐車場を練り歩く。
すると後ろから……
「ブゥーン! ブゥーン!」
音の方向を振り返れば、駐車場の端からオンボロな白い軽トラックが、こちらに向けてエンジンを吹かしていた。しかも、ハイビームでチカチカこちらにパッシングまでしてきやがる。
なんだ? 煽りやがって。誰か知り合いでも乗っているのか? いや待て。そんな気さくな真似する友人などいやしない。誰だ?
……運転席を見れば、誰も乗っていない。無人の車なのだ。
なに、どういうことだ!? あれか? 自動運転機能の誤作動ってやつか? あんな古めかしい軽トラで? いや、そんな馬鹿な。
……そんなこちらの混乱など知るかとばかりに、あろうことか軽トラは一直線に自分めがけて突進してくるではないか。
いかん! 轢かれる! 咄嗟に一目散に逃げ出した。
しかし、片手で重量のあるウイスキーボトルを持っているせいで思うように走れない。バランスが悪い。やはり再来週分に、もう一本買っておけばよかった。
振り返れば軽トラはすぐそこに迫っていた。
死に物狂いで走る、が、遅い。足がもつれる。ふと酒を捨てて逃げれば良いじゃないかと気づくが後の祭り。コンクリート製の壁まで追い詰められてしまった。
そして軽トラは、じっくりといたぶるかのように、ゆっくりとこちらににじり寄って来る。無人の車に圧殺されるだなんて。
「ぐぅ、もう駄目だ」
否応(いやおう)なしに死を覚悟した。
しかし、なぜか軽トラは無意識に突き出されていたウイスキーボトルに、車体の前面を触れては引いて、触れては引いてを繰り返している。さながら仔犬が興味のあるものに、警戒しつつも鼻先をクンクンと擦り付けてくるかのように。しかも、ワイパーをブンブンと稼働させている。まるで仔犬が喜びを隠せず尻尾を振っているかのように。
「お前、もしかして……」
軽トラはヘッドライトをチカチカ上目遣いにパッシングして、こちらの様子を伺っている。
「懐いてくれてるんか……?」
カッチ、カッチ……目をパチクリするようにハザードがたかれた。
……こんなアル中野郎に、温かみを思い出させてくれるような、優しいことをするな。
そんなの、ズルいじゃないか。
「なあ、うちに来ないか?」
いつの間にか、口に出ていた。
「プォー!プォー!」
軽トラは歓喜のクラクションをけたたましく鳴らした。
「そうか、嬉しいか。ところでお前、品種は……」
どこの仔なのかと、車体の正面に目をやる。しかし、本来そこに取りけられているはずである、メーカーのエンブレムは無かった。
「……なんだお前、雑種なのか」
「プォー!」
その無神経な発言に軽トラは少し怒ったようにクラクションを鳴らした。「ははは。すまんすまん。これからよろしくな!」
思わず笑みがこぼれた。酒に溺れた日々を送って以来、はじめて心から笑えたような気がした。
こうして、この軽トラとのハートフルな日々が始まったんだ。
公園に、海に、ホームセンターに。色んな所に一緒に走り回った。
酒は、辞めた。できるだけこいつと一緒に過ごしたいからだ。
仕事を、始めた。こいつを養わなきゃいけないからな。
しかし、こいつと一緒に暮らしていて驚いたことがある。この不思議な軽トラは食事を摂らないんだ。どうやって動いているのやら。もっとも、餌代がかからないのは飼主想いとも言えるだろう。
とはいえ、燃料メーターの表示がずっと空(から)を指しているのもいただけない気がする。そんなわけで、とある休日の午後、給油をしに、近所のガソリンスタンドへ訪れた。
「ええと……軽トラだから、軽油を入れれば良いんだよな……」
ところが、給油口に軽油のノズルを差し込もうとするが、こいつは何故か固く給油キャップを閉じて抵抗し、なかなか挿れさせてくれない。するとその様子を見かねてか、横から怒声がかかる。
「オイ馬鹿この! 軽トラには軽油じゃなくて、ガソリンを入れるんだよ!」
隣で給油をしていた農作業帰り風情の婆さんに怒鳴られてしまった。
「そうだったのか……」
あらためてレギュラーガソリンのノズルに持ち変える。すると今度はあっさりと挿入させてくれた。そして燃料タンクがパンパンになるまでガソリンを注ぎ込むことができたんだ。これで一件落着だ。
そしてその帰り道のこと。
ふと、この軽トラにも名付けが必要ではないかと思い当たった。
いつまでも『軽トラ』呼びでは精神的虐待と周囲に思われかねない。
「さて、なんと名付けるか。軽トラ……ケイトラ……ケイ……トラ……ケイ……これだ!」
……この名付けをきっかけに、この甘えん坊との心の距離は、更にぐっと縮まったような気がした。
それから、幾日かの月日が流れた。
それは、本当に輝きに満ちた日々だった。
しかし、とある大雪の夜、あまりにも突然に幸せは終わりを迎えた。
その夜、雪見をしようと、実家の程近くにある雪見の名所に向かうべく峠道を走っていた。田舎の峠道であるから電燈もない。本当に暗い峠道だった。
しかし、不意に進行方向の正面から強い光を向けられた。思わず急ブレーキをかける。
いったい何事だ。
目をこらすと制服を着た男。警官だった。とりあえず助手席の窓を開けて対応する。
「検問です。御協力お願いします」
検問か……しかし問題ない。何一つとして後ろめたいことは無い。
「あれ!? この車、ちゃんと車検は通ってますか?」
虚を突かれた。
シャケン? シャケンってどんなやつだ?
いや待て、噂に聞いたことあるぞ。あの『車検』のことか。
なんとなく前の飼い主さんが、そこらへんはしっかりとやっているだろうと、半ば願望的に考えていた。
いや、車検に限らず、この愛車の過去については、ずっと曖昧にしてきた。いったい、どう答えたら良いのだろう。駄目だ。わからない。
そんな戸惑いの様子を見てとった警官は、不審そうな表情をこちらに向ける。
「……失礼ですけど車から降りて貰えますか?」
ゴネる勇気もなく、警官によって車外へ出される。それと同時に警官は無線でナンバープレートの照会をし始めた。
無線のやり取りから察するに、照会自体はすぐに終わったようだ。だが警官の、こちらを見る目はますます険しくなっている。そして、冷たい口調で問いかけてくる。
「これ、事故車ですよね。しかもそのあと行方をくらませている車だ。あなた、この車をどこで手に入れたんですか?」
「……え? 事故車?」
自分の知らない、こいつの過去に、愕然としてしまう。
思わず軽トラに振り返った。
知られたくない過去を暴かれた愛車は、辛そうに目をロービームで伏せていた。
しかし警官は、質問の手をやめない。
「免許証を見せてもらえますか?」
「え? 私、運転免許の資格なんて持ってませんよ?」
「……それって無免許運転しているってことですか?」
警官はいよいよ犯罪者に対するかのようにスゴんできた。
この警官は、唐突に、何を的外れなことを聞いてくるんだろうか。
「いや、だから、そもそもに私は運転してないでしょうが。」
「は? あなた何を言ってるんですか。車の前列には、あなたしか乗ってないんだから、いったい誰が車のハンドルを握って……え?」
警官は車の内装を見て固まった。
「私が乗っていたのは助手席ですよ。外車ではあるまいし、常識的に考えて、左ハンドルの軽トラがあるわけないじゃないですか。」
「え、いやだって、あなた、いまこの車、この道を走ってきたじゃないですか!? え、なんで? 自動運転機能ってやつですか?」
警官は明らかに狼狽している。うむ。今がチャンスだ。
「完全自動運転機能の車なんて技術的にまだ無理に決まっているでしょうが! メルヘンじゃあるまいし、なに夢物語を言ってるんですか。それでは、急いでるんで、もう行きますよ」
混乱に乗じて、警官の横をすり抜けて助手席に戻ろうする。
が。駄目。警官に腕を強く掴まれてしまった。
「ちょっと待てあんた! まだ話は終わってないぞ!」
警官の指先がメリメリと肉にめり込んでいく。
「痛い痛い! 何するんだ!」
強烈な痛みで、思わず苦痛の叫びが出る。
その時だった。
「プォー! プォー! プォー!」
猛烈なクラクションが周囲に鳴り響く。
「な、なんだ!? 誰も乗っていないのに!?」
警官は突然のことに驚愕した様子だ。
「ブゥーン! ブゥーン! ブゥーン!」
しかし、追い打ちのように、クラクションに続いてエンジンも怒り狂いだした。
これはまずい。激しく警官を威嚇している。
そして、敵意を剥き出しのまま、車体はジリジリと警官に迫(にじ)り寄ってくる。
「ひ、ひい!!」
警官は悲鳴をあげながら尻餅をついた。
……分かるよ。あれ怖いんだよなー。
いや違う、そんな呑気なことを考えている場合じゃない。
大変だ! 早くアイツを鎮めないと!
「ダメ! その人から離れるんだ! 人を襲えば、この飼い主には管理ができないって行政から判断される! わかるか!? もう、一緒に暮らせなくなるんだぞ!!」
「!!!」
言葉が伝わったのか、車体はピタリと止まった。
「……それに、ほかに貰い手なんか、そうそう見つからないぞ……勝手に動いて人を轢こうとする車なんて……あと雑種だし……保健所送りにされたら……最悪は殺処分されるかもしれないんだぞ……」
しんみりとした雰囲気が周囲に満ちる。
だが、いまいち空気の読めない警官は、このやりとりに戸惑いを隠せないようだ
「おい……いったいなんなんだ。その軽トラは何なんだよ!? とにかくその車は確保だ!!」
そう言い放つや、腰の警棒を引き抜き、またも横暴を働こうとする。
「だ、だめだー!!」
咄嗟に警官にしがみつく。
「な、放せ! 公務執行妨害だぞ!」
無我夢中だった。
「うるさい!! 行けー! 逃げるんだー!!」腹の底から叫んだ。
「!!!」
魂の叫びに呼応するが如く、たちまち車体は発進し、暗い峠道を突き進んだ。
しかし、数秒進んだところで、突如として止まった。その不可解な行動に思わず怒声を浴びせてしまう。
「なにしてんだよ! さっさと行けよ! 行っちまえー!」
……そのとき不意に、車体後方のブレーキランプが光った。
1.2.3.4.5……5回点滅した。
「……ユ・ル・ス・マ・ジ だと!?」
困惑の言葉が口から漏れた。そして、メッセージを伝え終えた車は再び動き出し、夜の闇へと消えていった。
「いや、サ・ヨ・ウ・ナ・ラのサインじゃね?」
元凶の警官がなにやら訂正を入れてくる。が、もうほとんど外の言葉は聞こえない。ただただ胸の内に紫の雨が降っている。
「うわあああああああ!!!!!」
慟哭が暗い峠道に鳴り響いた。
……それから、また奈落のなかを暮らすようになった。
自分はいったい何のために生きているのか。
愛する物を失った悲しみを無理矢理に掻き消すべく、みずから仕事に忙殺されにいくような日々を送る。
そんな、ある日のことだ。いつものように深夜まで残業をしていた。すると不意に、携帯に電話がかかってきた。母からだ。
母から電話がくるなど、いつぶりだろうか。何かあったのか?
一瞬ためらってから応答をする。内容を聞いてみれば案の定、実家の道向かいに住む親戚すじの家で不幸があったのだという。
電話を切ってからすぐに残業を切り上げ、とにもかくにもタクシーを拾い実家に向かった。
車中で喪服や香典をどうするかなどあれこれ考えていると、いつのまにかタクシーは見知った峠道に差し掛かっていた。
あの峠だ。ちょうど一年前に、この道を通ったんだっけな。
窓を開けると峠の風が入り込んできた。車内の暖房が効き過ぎているのもあってか、冬の峠の冷気はひんやりと気持ちいい。
風に運ばれた峠の香りが鼻腔を刺激すると、自然と幸せだった日々の思い出が想起されていく。アイツと一緒に行った公園、海、ホームセンター。他愛もないようなことが、僥倖だったと思う。
「お! お客さん、私もその曲好きなんですよ!」
タクシーの運転手が初めて口を開いた。どうやら無意識に口ずさんでいたようだ。これは恥ずかしい。
「突然話しかけてすみませんね。実はこの辺りに幽霊が出るって噂があるものですから、私も怖くて。この峠道を抜けるまで話し相手になってくれると助かります」
運転手は弁解するように言う。
「良いんですよ。こちらとしても少し感傷的になっていたから、話しかけてもらったほうが気も安らぎます。しかし、その幽霊の噂が気になりますね」
「……あれは半年ほど前です。この辺りで検問をしていた警官が行方不明になりましてね。当時は神隠しにあったなんて噂もありました。しかしですね、その警官が幽霊になって夜な夜なこの峠で検問をしているんだそうですよ」
……運転手はそんな話をしてくれた。怖いと言いながらもなかなかに語り口は滑らかだ。この運転手、実は案外好きものなのかもしれない。それにしても、検問か。半年前なら、自分が検問を受けた後のことか。
そう、確か自分が検問を受けたのは、あのあたりで……あれ?
「運転手さん、前……ほら、あそこ、誰か立ってませんか?」
「え?」
進行方向の先。ヘッドライトに人影が照らされていた。タクシーが近づくにつれ輪郭がはっきりしてくる。制服に、棒……警官だ。 検問か?
しかし、なにやら様子がおかしい。赤色灯の棒を振ってはいるが、夜間だというのに点灯されていない。着ている制服についても、遠目で分かるほどに傷んでいる。
出た。間違いなく、先の話に出た警官の幽霊だ。
タクシーが近づくにつれ、警官姿のそれは、ゆらゆらとタクシーの前に立ちはだかった。仄(ほの)かな動作ながらに、その実、身を挺した行動。断固として通過させないという気概を感じる。
だが、もしここでアクセルを踏み込みでもすれば、あるいは押し通ることもできるかもしれない。だが、いかに幽霊とはいえ、人間、しかも警官姿のモノを車で轢き進む胆力を、この運転手は持ち合わせていなかった。諦念の嗚咽を漏らしてからタクシーを停車させてしまう。
すると、警官は無言のままタクシーのそばへ寄り、フロントガラスに顔を近づけて運転手の顔をじっとりとした目で眺めた。
そして、ひとしきり眺め終わると、今度は、ぼろぼろの制服を車体に擦らせながら、顔を後部座席のドアガラスにまでスライドさせて来た。
それから、チラリとこちらの顔を確認する。
その途端、警官は急に目を見開き、半開きの窓の隙間に強引に腕を差し込んできた。
咄嗟に隣の座席に身を翻し、警官から間合いを取る。
カチッ……ガチャリ……
爪が剥げて血の滲んだ指先が、ドアロックのスイッチを探り当て、ドアは解錠され、開け放たれた。
警官の顔面は車内に侵入して、じーっと舐めるような目でこちらの顔を凝視している。脳裏に死がよぎった。
もう駄目だ……
しかし、お互いの目が合った瞬間に、なぜか警官の方が驚愕の表情に変わった。
そして、急いでタクシーから降りるや、不可解にも腰を直角に折り曲げて深々とお辞儀をするのだ。
「……お待ちしておりました。」それは実にかしこまった声だった。
「……は?」
「どうぞ……こちらへ……」警官は五指をしっかり伸ばし、まるで重要ゲストを案内するかのように、うやうやしく車外へ出るよう促してきた。
全く、わけがわからないが、こちらに危害をくわえる気はないようだ。しかもどうやらこの警官、かろうじてではあるが幽霊というわけではないらしい。
導かれるまま車外に出て、警官にホイホイとついていく。
するとタクシーから程近いところに、ひらけた敷地があった。そして、そこに一台の白い軽トラが停められていた。ひどく懐かしく感じる。
あの軽トラは、まさか、いや、見間違えるわけがない。
「プォー!」ひとりでに軽トラのクラクションが鳴った。これまで聴きたくて仕方なかった鳴き声だ。思わず軽トラに駆け寄ろうとする。
だが、その途端、元飼い主より先に警官の方が脱兎の如く走り出し、我が軽トラにすがりつくではないか。そして、懐からスポンジを取り出すや、大きな声で
「ごめんなさい。ごめんなさい。いえ、滅相もありません。失礼なことなど一切しておりません。」などと必死に弁明をしながら、涙で顔をぐしゃぐしゃにしつつ車体を磨き出した。
警官の気持ち悪い行動に困惑しながらも、懐かしの軽トラに近づく。
久しぶりに再会した我が軽トラは、見違えるほどにピカピカになっていた。
それは別に良い。しかし、この状況はいったい……
「プォー!」急に怒声のようなクラクションが鳴らされる。
「は、はい! 直ちにお通し致します!」そう言うや警官は助手席のドアを急いで開けた。ところが勢い余って、ドアの端が岩壁にゴツんとあたってしまった。
「ひい、ごめんなさい。どうか、わたくしめに教育をお願いします」そう言い終わるや警官は車体後方に回り込み、排気ガスが出ているマフラーに口を近づけて、あろうことか、ガスを吸い込もうとするではないか。
「プォー!」
「え、今回は見逃して頂けるのですか!? 感謝いたします! 」
そして警官は、こちらに手招きをして、助手席に座るようにうながしてくる。車内を確認してみれば、内装こそ変わっていないが清掃が行き届いており、埃ひとつ落ちていない。まるで新車のようであり、逆にそれが不気味でさえあった。
だが、それはさておき、久しぶりに愛車の助手席に座ることができた。思わず胸が熱くなる。
しかし警官は、この再会の様子を見届けるや
「それでは、私はこれにてお暇をいただきます……」と、そそくさにこの場から退場しようとする。だが……
「プォー! プォー!」また愛車のクラクションが鳴らされた。
「え……いくらなんでも、そんなこと出来ませんよ。勘弁してください……」何を命じられたのか、警官は泣きそうな顔で慈悲を哀願している。しかし…
「プォー!」指示に背く事を断じて許さぬ、といってるかのような強い音調でクラクションが鳴り響いた。
すると警官はその場に泣き崩れ、嗚咽をもらした。
それから絶望した表情を浮かべながらボロボロの制服を脱ぎ始めた。その意図はわからないが、ついには真冬の最中(さなか)だというのに全裸になってしまった。
そして軽トラの正面に立ちはだかり、その場で土下座をした。
「わたくしめのせいで、お二人の仲を別(わか)つこととなってしまい……誠に……誠に……申し訳ありませんでした!」それは発狂したような声だった。
……警官の謝罪が終えると、車はひとりでに、ゆっくりと前進した。
「お、おい!」
まさかの発進に、思わず声が出た。だが愛車は止まらない。
ガダン!
土下座する警官の後頭部と背中を、タイヤは無慈悲に踏み越えていった。
数メートル進んだところで、警官の様子を見るべく、恐る恐る後ろを振り返る。
警官は土下座の姿勢のままピクピクと痙攣していた。すると物陰でこちらの様子を見張っていたのか、タクシーの運転手が現れ、警官に駆け寄った。そしてどこかに電話をかけている。救急車を呼んでいるのだろうか。それならば、まあひと安心だな。
やがて愛車は峠を越えて、とある廃車置き場に停車した。
いつのまにか周囲は大雨だ。実家に行かねばならないが、もはやどうでもよくなってきた。とりあえず母親に電話する。
「もしもし母さん? 俺だけど」
「……ちょっとあんた、いまどこにいるの!? 葬儀の準備を手伝ってもらいたいんだから早く帰ってきなさいよ!」
「うん……ごめんね。俺、その葬儀は、もういいや。」
「は!? ちょっと慶太郎! あんた急に何を馬鹿な事を言ってるのよ!? いいから早く帰ってき」母親は何か言いかけていたが、俺はブツッと電話を切った。
……すべてが面倒だ。助手席の背もたれを倒し、目を閉じる。
「俺はさあ、お前とこうして過ごせるなら、ほかに何も要らないよ。お前もそうだろ? なあ、『トラ』」
そう、天井に口ずさむ。
だんだんと眠くなってきた。
※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。