鏡と現実の境目
投稿者:くま (10)
特別養護老人ホームにて介護士をしています。
こういった施設には、どこでも不思議なはなしがあるようで、これまで何回か施設を変わりましたが、どの施設でも色々な話を聞いたり、実際に経験したりしてきました。
これは、前に勤めていた従来型の特別養護老人ホームでのはなしです。
百人以上の利用者さんがおられました。その中で、目が見えないが、活動的で、壁つたいに施設中を歩き回る方がおられました。本当にどこにでも行かれる方で、思いもよらない場所に入り込まれることがよくありました。声を出すことはできても普通に会話することはできず、なにか思いがある時は、壁を叩いたり、ジェスチャーで示したりされる方でした。
ある夜勤の時です。
巡視の時、その方の居室に入りました。その方は暗闇の中で、ベッドの上で体育すわりをされ、見えない目を見開いておられました。
たいていは目を閉じておられるので、珍しいこともあるなとその時は思いました。目を開いたままじっと動かないその方に「真夜中ですよ、休みませんか」とお話しましたが、反応はありません。ただ、じっと膝を抱いて目を見開いているのです。
(まあ、そのうち休まれるだろう)
その方については、次の行動が予測できない部分がありましたし、はっきり意志を持っておられるので、こちらから見て奇妙に思われる行為をしていても、絶対に止めることはできないのです。特に危険がなさそうなので、その時は静かに退室しました。
夜勤時、職員は順番に仮眠を取ります。わたしも仮眠を取り、時間がきたので勤務に戻りました。すると、他の職員が深刻そうに「××さんの所在確認がとれない」と言ってきました。
××さんとは、件の利用者さんのことです。そして、その職員はまだ入って間もない新人さんでした。
××さんはよく居室から出られるが、また自分で戻ってこられますよと説明すると、新人さんは少し安心したようです。
「でもどこに行かれたのでしょう。いろいろ探したんですが」
と、新人さんは困惑したように言いました。
もしかしたらもう部屋に戻っているかもと思い、二人で××さんの居室を覗きましたが、やはりいません。その方がよく入り込まれるベッドの下やトイレなどを探しましたが、姿は見えませんでした。
「見かけたら教えてくださいね」
新人さんにはそう伝えました。
夜中の2時すぎくらいでした。
ある利用者さんの部屋からコールがあり、こまごまとしたことを対応しました。やっと解放されて通路に出た時です。
××さんの姿がちらっと視界の隅をよぎったように思いました。「××さん」と呼んであたりを見回しましたが、暗い通路には人の気配はありません。
その通路は居室が並ぶ側と、大きな鏡が貼られた壁側で成っています。居室から出た時、反対側の壁の鏡に自分の姿が映ったのを、利用者の姿と勘違いしたかな、とわたしは思いました。
歩き出した時、今度は確かに××さんの姿を見ました。
目を大きく開き、口を開いて何か言おうとしているのです。背中を壁につけているように見えました。そして、手を伸ばして何かジェスチャーで示そうとしておられます。
「××さん、夜中ですよ。お部屋に帰りませんか」
わたしはそう呼びかけると、しきりにジェスチャーを繰り返す××さんの手を握り、手引きをして、お部屋にお連れしたのです。
××さんはベッドに入ると、すぐに丸くなって寝てしまいました。
その後、巡視中の新人さんに出くわしたので「××さん戻りましたよ」と伝えました。
夜勤があけてから気づいたのです。あの時、そこに××さんがいるはずがなかったことを。
そこには、鏡がありました。あの時の状況をよく思い出してみると、××さんは鏡の中からわたしに向かい、目を見開き口を動かしていたことになります。
疲れ果てていたわたしは、特に何も考えず、鏡の中の××さんに手を差し伸べ、廊下を誘導して居室までお連れしたわけです。
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