わたしは姉と喧嘩してしまい、気分晴らしにと深夜のドライブ中、山道で車がパンクしてしまった。スマホの電波は圏外。街灯ひとつない暗闇の中、わたしは途方に暮れていた。その時、暗闇の奥から一人の老人がゆっくりと歩いてくるのが見えた。手には古びた提灯を持っている。わたしはわらにもすがる思いで、車がパンクしたことを説明し、頼んだ。
「車が壊れたんかね。うちがすぐそこだから、朝まで休んでいくといい」
老人は穏やかに微笑み、僕を自宅へ招き入れてくれた。温かいお茶と手作りの料理を振る舞われ、冷え切った体が一気に温まる。人里離れた山奥だが、家の中はとても清潔で、どこか懐かしいお香の香りが漂っていた。
「助かりました。本当に優しい方に出会えてよかったです」
僕が心から感謝を伝えると、老人は嬉しそうに目を細めた。布団に入ると、心の何処かにあった張り詰めていた緊張が解け、深い安心感に包まれながら僕は眠りについた。
ふと、トイレに目が覚めた。トイレに行こうと部屋を出ると、廊下の奥の部屋から、かすかに話し声が聞こえる。老人が誰かと話しているようだ。
「……うん、そうだ。今回はとてもいい子が来てくれたよ」
老人の声だ。昼間の穏やかなトーンとは違い、なぜか楽しげに弾んでいる。
「体も健康そうだし、何より素直でね。これなら、あの子もきっと喜ぶ。やっと代わりが見つかったよ……」
(代わり……? あの子……?)背筋に冷たいものが走る。僕は足音を立てないように、老人の部屋の障子へ近づき、隙間から中を覗き込んだ。部屋の中には、老人が一人で座っていた。その目の前には、大きな古い姿見の鏡が置かれている。老人は、鏡に向かって熱心に話しかけていたのだ。なぜか、奇妙な安心感に包まれた、ただの独り言か。おじいさん、少しボケてしまっているのかもしれないな。一人で納得しながら、自分の部屋に戻ろうと一歩下がった、その時。ギシッ、と床板が鳴った。老人の話がピタリと止まる。心臓が跳ね上がったのがわかった。僕は息を殺してそのまにとどまっていた。沈黙の中、部屋の中の老人が、ゆっくりとこちらを振り向いた。その顔は、昼間の優しさなど微塵もない、無表情で虚ろな目。老人は僕と目が合うと、不気味に首を吊り上げ、鏡の向こうを指差した。
「……ほら、あの子も後ろで喜んでいるよ」
え? と思った瞬間。僕の首筋に、氷のように冷たい『誰かの手』が、後ろからそっと触れた。
























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