「・・・・・・実は私、以前に興信所を営んでいたことがありましたね」
そう話を切り出したのは現在60代半ばの林さん。興信所を畳み引退後は海辺の町で悠々自適な生活を送っておられますが、この一件を語る時だけは、その節くれ立った指先が微かに震え、視線はどこか遠い空の下を彷徨っていました。
「2000年代初頭、まだ世の中が今ほど便利ではなく、人の縁や過去が容易に霧の中に隠れてしまえた頃のあまりに不可解で、そして救いのないお話です」
その男が林さんの事務所を訪れたのは、湿り気を帯びた初夏の夕暮れ時でした。 名は徳田。40代半ばという年齢以上に老けて見え、お世辞でも似合わないヨレたスーツがより一層貧相さを醸し出していました。そして日焼けした肌には肉体労働の過酷さが刻まれていました。
「・・・・・・これを、調べてほしいんです」
震える手で差し出された依頼書。その内容は、大分県出身の“サエキヒロシ”という男の行方調査でした。徳田は「後にわかることでしょうから」と包み隠すことなく自身の前科について説明を始めました。彼は殺人で10年服役した過去があるというのです。正直、林さんは「報酬を払えるのか」と疑いましたが、男は薄汚れた封筒から、血の滲むような思いで貯めたであろう現金を手付金として差し出しました。
調査対象のサエキヒロシ。1960年代生まれ、父親は実直な公務員、母親は温厚な専業主婦。大学卒業後に大阪の営業職に就き、社内成績も優秀。しかし、父親の葬儀のために帰省して以来、プツリと消息を絶っていた。動機のない失踪。林さんはこの「優等生」の足跡を追い、大分へと飛びました。
大分の現地調査で、林さんは奇妙な事実に突き当たりました。 サエキの実家とされる住所を訪ねると、そこには確かに一軒の空き家がありました。近所の住人の話では、10年前に主人が病で他界し、翌年には奥さんも後を追うように亡くなった。一人息子のヒロシは葬儀の後に失踪。親族は相続人が見つからないため、処置に困り果てている・・・・・・。
警察にも行方不明届が出されており、サエキヒロシは確かにこの世に「存在していた」はずでした。
林さんは東京へ戻り、徳田に中間報告を行いました。そのなかで林さんは疑問に思っていたことを徳田に尋ねた。
「・・・・・・徳田さん、サエキヒロシとの関係を正直に話してくれますか?なぜあなたが、この男を追うんですか?もしかして、あなたが過去に犯した罪と何か関係があるのですか?」
すると、徳田はぐっと口を真一文字に塞ぎ、しばし押し黙った。下を向いた彼の口元から、相当に力を入れて歯を食いしばっているのであろう、口角が小刻みに震えているのが見えた。しばしの沈黙のあと、徳田の目から大粒の涙が溢れ出しました。
「林さん・・・信じてもらえないかもしれない。・・・“サエキヒロシ”は、私なんです。」
徳田の告白は、あまりに荒唐無稽なものでした。
20代の頃、サエキヒロシは大阪で働いていました。大学在学時代、将来について父親に尋ねられたとき、彼はまだ自身の将来について深く考えていなかった。成績は上位だったこともあり、父親は自分と同じ役場に就職することを勧めました。
しかし、彼は田舎暮らしに飽き飽きしていたこともありその誘いを断りました。そして大阪の企業で働くことを決めました。
営業職として働くことになったサエキヒロシは、非常に多忙な日々を送っていました。忙しさと比例するように、営業成績は伸びていった。仕事は楽しかったといいます。忙しさを言い訳に、彼は就職から数年実家に帰省することはなかったそうです。
しかしそんな最中、父親が末期の肝硬変で倒れたという報せを受け、彼は上司に相談し、帰省をしました。入院先の病院につくと、父親はげっそりと痩せこけていた。白目は黄色がかり、顔色は土気色。これは長くないかもしれない、そんな予感を確信にするかのように主治医から余命を宣告されました。
「こんな状態になるまで自分はなぜ顔の一つも見せてやらなかったのか」
そう自分を責めましたが、実は父親が自分の容態を伝えるなと母親に口止めしていました。昭和生まれの九州男児。父親はとにかく熱い男でした。男は仕事をしてなんぼ、という信念の下、父親は大阪で頑張っている一人息子の足を引っ張りたくない、無駄に心配かけたくないとこうなるまで黙っていたのです。
別れ際に父親は言いました。
「頑張ってな。いつでも応援してるからな」
それから1月経った頃、父親が亡くなったという報せを受けました。
彼は再び急いで帰省の電車に飛び乗った。その道中、乗り継ぐ電車のなかで彼は不思議な夢を見たといいます。
一面に咲き乱れる野花の河原。対岸には、元気だった頃の父親が立っていた。父と自分の間には小さな橋があり、父は何かを必死に叫んでいる。何を言っているのか、近づいて話をしようと橋に一歩踏み出したときでした。ぶわっと風が吹き、無数の花びらが舞い上がった。視線を再び父親に戻したとき、父は今まで見せたことのないような形相で叫んだ。
「来るなッ!!!」
その瞬間の叫び声で、彼は目を覚ました。
実家に着くと、温厚な母親が出迎えてくれた。仏間には白い布をかけられた父親。
「お父さん、ごめん・・・・・・」
サエキは泣きながら、その布をゆっくりと捲り上げました。
























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