「置いていかないで」
「帰りたい」
低く湿った声が、少しずつ重なっていく。
恐怖に耐えきれず、私は両手で耳を塞いだ。目を固く閉じ、座席にうずくまる。
すると、すぐ隣から男の声がした。
「お客さん。ここで降りますか?」
恐る恐る目を開ける。
暗い窓ガラスに、運転手の顔が映っていた。
けれど、前の座席には誰もいない。
窓に映った運転手だけが、私の隣に座っているかのように顔を寄せていた。その肌は水にふやけ、両目から黒い水を流している。
「ここで降りますか?」
男はもう一度尋ねた。
私は悲鳴を上げた。
そこで意識が途切れた。
次に目を覚ましたとき、タクシーは止まっていた。
車内は静まり返っている。運転席にはやはり誰もいない。
窓の外には、深い霧に包まれた湖が広がっていた。水面は鏡のように静かで、月も星も映していない。
車は湖のほとりに停車しているように見えた。
私は震える手でドアに触れた。
今度は、簡単に開いた。
冷たい空気が車内へ流れ込む。あの不気味な道から逃れたい一心で、私は慎重に片足を外へ出した。
地面があると思った。
しかし、足は何にも触れなかった。
その瞬間、私はようやく気づいた。
タクシーは湖のほとりに止まっていたのではない。
湖の真ん中に、浮かんでいたのだ。
体が水中へ落ちる。
凍りつくような水が全身を包み、息ができなくなった。水面へ戻ろうともがくが、何かが足首をつかんでいる。
水の底を見ると、数え切れないほどの人々が沈んでいた。
男も女も、老人も子どももいる。



























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