俺は1年前の別れぎわ、川合君がコインの飛んでった方向を不安そうに眺めてた姿を、どうしても忘れられない。
もし、だよ。川合君も――あるいは藤堂も――〈ハッピネス®〉とかいうくだらんイタズラを真に受けちゃったんだとしたら? 例の取るに足らないコインのせいで、この世界がさっき書いた③だと誤認したんだとしたら? 人生にはこの先楽しいことはいっさいなくて、暗澹たる未来が待ってるだけのクソゲーだって結論したんだとしたら?
俺は太く短く生きたから、あとはもういいや――。
彼らがそう早とちりして、自決したなんてことはないよな?
両者がその後どうなったか、彼らの実家に連絡するとかなんとかして確かめることはできるよ。でも結局ズルズルと先延ばしにしたままいまに至ってる。知らなくてもいいことってあると思うんだよ、たとえば旧友2人の現況とかね。
藤堂から7~8年前にお金の無心をされたとき、内装大工の一人親方になったとか言ってたけど、どうせどんぶり勘定でやってたんだろうから成功したとは思えない。川合君もFIREするに十分な蓄えはできたかもしれないけど、離婚のダメージはずっと尾を引いてただろう。精神的にズタボロな状態のところへ、人生はこれからずっと下り坂だって突きつけらたら、心の弱い人なんかは……。
例の〈ハッピネス®〉を作った奴って、もしかしてそれを狙ってるんじゃないかな? このバカげた騒動に巻き込まれた不特定多数の人間の誰かひとりでもいいから血迷って、自殺すればいい。勘ぐりすぎかもしれないけど、あのコインにはなにかそういう、とてつもない呪いが秘められてるような気がしてね。説明書の行間から仕掛け人の意図が、雨漏りみたいにじわじわとしみ出してくるみたいな。
死ね、死ね、死ね――ってさ。
俺がコメダ珈琲の屋根の向こうへぶん投げたのだけが、この世に現存する〈ハッピネス®〉だとはとうてい思えない。取扱説明書はどっかの印刷所に頼んだんだろうし、コインも個人じゃ作れないだろうから大阪あたりの零細製鉄所に依頼してるはず。何ロット製造されたか見当もつかないけど、ある程度まとまって発注されたと考えるのが自然だ。
なにが言いたいのかというと、もしかしたら読者も知り合いから〈ハッピネス®〉を買わないかって持ちかけられるかもしれないってこと。受け取った人間が人生に絶望することを狙って作られた、呪われたアイテムをね。
もし〈ハッピネス®〉が読者の手元に届くようなことがあったら、俺みたいにコメダ珈琲の屋根に向かってぶん投げてやればいい。余裕があるなら売り主の友だちに、自由意志で未来は切り拓けるんだってことを懇々と諭してやってほしい。決して悲観的になるな、と。
* * *
ここまであたかも自由意志信奉者みたいにふるまってきたけど、どうも川合君と再会してからこのかた、人生に張り合いがなくなったような気がしててね。
仕事がうまくいかなかったら、いままでなら原因と対策を考えて同じミスをくり返さないよう気をつけるようにしてたけど、最近は新卒のペーペーみたいな心境になりつつある。クソ忙しかったし誰がやっても防げなかった、俺は悪くない、上司の采配ミスだ……。われながら情けないとは思うんだけどね。
認めたくないけど、知らないあいだに俺も運命決定論に毒されつつあるようなんだ。
これって〈ハッピネス®〉を捨てたせいで『惹き起こされる事象』なんだろうか? それとも川合君が失踪したことについて、俺にも責任の一端があるかもしれないっていう良心の呵責なんだろうか?
今後の日本がどうなるかわからないから不安だって話、よく聞くじゃない。でも未来が不確定なのって、実はとても幸せなことなんじゃないかな。未来を見通せないからこそ、いまを生きる意味があるんじゃないかな。
心理学かなにかの実験で、嘘みたいな本当の話がある。手を動かそうと決意したときに、脳のどの部分が活性化するかをMRIでスキャンして確かめたんだと。そしたら被験者の内発意識より「先に」、脳の神経インパルスが励起してたらしいんだよ。この実験を知った当時は、なんかの間違いだろって笑い飛ばす余裕があったけど、いまは……。
くり返すよ、俺たちがなにかしようと思うより「先に」、すでに脳内でニューロンが発火しちゃってんの。読者はたぶん俺/あたしっていう確固たる人格があって、そいつが脳内に居座って身体をコントロールしてるって思ってるでしょ。実はそんなのはまやかしで、本当は脳が先に決めた行動を事後承諾させられてるだけの操り人形ってのが、自意識の正体かもしれない。
これってこの世界が運命決定論に支配されてる間接的な証拠になるんじゃないかな。
* * *
ついこないだ、ものすごくいやな夢を見てね。
目が痛くなるような真っ赤な背景を背に川合君が突っ立ってて、俺に向かってなんかくり返ししゃべってるんだよ。声が小さいのか距離が離れてるのかうまく聞き取れなくて、俺は何回も聞き返すわけ。でもなんとなくこっちに来てほしくないな、離れててほしいなっていう妙な忌避感があったのね。
こういうとき、俺は望み通りの展開になったためしがない。案の定川合君の顔が急にアップになった。まるで宇宙空間に生身でいるみたいに、充血した目ン玉が飛び出そうなほど見開かれてて、そこから滝のように血が流れてた。背景の鮮烈な赤とダブって死ぬほど不気味なんだけど、夢特有のモーション制限がかかってて逃げられない。
で、旧友がなんて言ってるかようやくわかった。
「お前は44歳で死ぬ」
そこで目が覚めた。全身汗みずくで、なんだか知らないけど涙が止まらなかった。
この陰鬱な夢が運命決定論の証拠だとか予知夢だとか思ってるわけじゃないよ。まして川合君が実は物故してて、その怨念に祟られてるなんてことは絶対にありえない。彼に対する罪悪感が深層心理に隠れてて、それが夢として顕在化しただけだって頭ではわかってるよ。あくまで頭ではね……。
なんだかまとまりのない文章になっちゃって申しわけない。正直に白状すると、ちょっとナーバスになってるみたいだ。
最後にお願いがある。もし読者の手元に〈ハッピネス®〉なんていうクソいまいましいコインが届くようなことがあっても、こんなふうに悩まずに強く生きてほしい。自分の力で人生を切り拓いてってほしい。
それが呪いをバラまいてほくそ笑んでる仕掛け人に一矢報いる、唯一の対抗手段なんだから。
心理学の実験が自発性を否定しようが、旧友が血の涙を流しながら死の宣告をしようが、俺も精一杯生きてくつもりだ。
この世は自由意志に満ちている。俺はそう信じる。
























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