これは私が社会人2年目の夏に、田舎の祖母の家で体験した話です。
代々続く地主の家系だった祖父が亡くなってから、祖母は大きな日本家屋に1人で住んでいました。毎年お盆になると親戚一同が集まり、先祖供養という名の宴会が開かれるのですが、仕事の都合で予定が合わなかった私は、その夏は日程をずらして1人帰省していました。
久しぶりの祖母の家は都会の喧騒とは無縁で、ゆっくりとした時間の流れに心が洗われるようでした。昼は畑仕事を手伝い、夜は手料理に舌鼓を打つ。とても充実した日々でしたが、田舎故の娯楽の少なさと時期はずれの帰省ということもあって、私はすぐに暇を持て余してしまいました。
することもなくなった私は祖母が近所の寄合に行っている間、居間でごろごろ過ごしていました。今日は何をしようか、そんなことを考えていると、ふと視界の隅に気になるものを見つけました。
それはシャボン玉セットです。
ショッキングピンクのボトルに緑のストロー。子どもの頃に遊んだそのままの姿で、居間から勝手口に続く廊下の隅に置かれていました。
おそらくお盆に帰省した姪たちが楽しんだ残りでしょう。
あまりの手持ち無沙汰と懐かしさから、久しぶりに遊んでみたくなりました。
いい大人がシャボン玉か…と心の中で自嘲しつつ、縁側へ向かうと雨戸の縁に腰掛けシャボン玉を吹き始めました。
虹色に光る球がストローの先から空へ浮かぶ様子は思いの外綺麗で、だんだん楽しくなってきました。しばらくシャボン液にストローを浸し、息を吹き込む作業を繰り返していると、どこからともなく奇妙な音が聞こえてきました。それはガラス同士がぶつかるような微かな破裂音でした。
手を止めあたりを見回しますが変わった様子はありません。
気のせいか、と再びシャボン玉を作ろうとした時、またあの破裂音が聞こえました。風鈴でも掛かっているのかと顔を上げた私はその態勢のまま固まってしまいました。見上げた軒先から男の子の顔がこちらを覗いていたのです。6.7歳くらいの男の子の顔だけが屋根からにゅっと飛び出して私を見つめていました。ギョっとして動けなくなった私をよそに、男の子は気にする様子もなく空に舞うシャボン玉に目を向け、そしてそのまま口を開けシャボン玉を食べてしまいました。その時にカシっというあのガラスの破裂音が鳴りました。音の正体は男の子がシャボン玉を噛み砕く咀嚼音だったのです。
シャボン玉を飲み込んだ男の子は私の手元のボトルを見つめました。おかわりを催促されていると直感した私は、考える間もなく次のシャボン玉を作っていました。不思議と恐怖はなく、どこか懐かしいような、泣きたくなるような温かさが胸に広がるのを感じました。
私が作ったシャボン玉はすぐに消えたり風に流されたりで全て空に向かうわけではなかったですが、それでも屋根まで届いたシャボン玉を男の子は器用に口で捉えて咀嚼を続けます。
どれくらいそうしていたでしょう。気がつくと男の子の顔は消えており、空になったボトルをを片手に呆然としている私だけが縁側に取り残されていました。
生まれて初めての奇妙な体験に興奮しつつ、寄合から帰った祖母に早速先ほどの話をしました。
いつものように穏やかに相槌を打ちながら話を聞いてくれた祖母は一言、
「それは息吹を食べてたのかもしれないわね。悪いものではなさそうだから気にしなくても大丈夫よ」
と静かに笑いました。
祖母は昔から博識で不思議なことに寛容でした。幼い頃によくこの土地の風習や昔話を聞かせてもらっていました。先ほどの奇妙な体験も祖母の頭の図書館には所蔵済みのようです。
「息吹ってなに?」
私が尋ねると少し考える素振りをしてから祖母はこう答えました。
「昔からね、人の吐く息には命が籠ると考えられていて、それを息吹と呼ぶの。人って呼吸しないと生きていけないでしょ?でも呼吸をするごとに死に近づく。呼吸は命を吸い込むと同時に吐き出すことだと考えられていたの。草木や動物霊なんかは息吹を取り込んで存在を繋いでいたりもするのよ。その男の子も息吹を分けてほしかったのかもしれないわね」
シャボン玉に包まれた私の息、息吹を食べる男の子。
「本当に悪いものは息吹ではなく直接命を狙ってくるから、おおかた鼬か猫か、小動物の霊じゃないかしら」
そう言うと祖母は夕飯の支度をしに、炊事場に消えていきました。
日本昔話のような話を聞いて、私は妙に納得してしまいました。
不思議と恐怖を感じなかったのも敵意がなかったからでしょう。それに猫の霊という言葉が古い記憶を呼び起こし、懐かしさの正体に気がついたのもその一因かもしれません。
トントントンと祖母の小気味良い包丁の音に耳を傾けながら、私は男の子の正体を確認することを決心しました。
翌日、朝早くに祖母から脚立を借りた私は、縁側の屋根に立てかけました。ちょうど男の子が顔を出したあたりです。屋根まで登り切り、雨樋に目を遣ると、そこには灰色の猫が一匹、丸まって心地良さそうに眠っていました。いえ、正確には眠るように死んでいました。気持ちよさそうに。昼寝でもしているかのように。私が昔世話をしていたままの姿で。


























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