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不思議体験

本宮晃樹さんによる不思議体験にまつわる怖い話の投稿です

迷い込んだ遭難者
長編 2026/02/01 12:13 256view

 知り合いの消防署員に聞いた話では、遭難者はリングワンダリング(輪形彷徨:方向感覚を失って一定の範囲内をぐるぐるさまよう現象)による道迷い遭難ということで処理されたらしい。警察としてはそうするよりなかったとは思うのだが、わたしはいまだにどうしても納得できない。

 コンパスも地形図もビバーク用ギアも持っていて、天気図すらラジオから読み取って書けるようなベテランが、ただ北に向かって尾根を登り返すだけの行程をこなせないはずがない。事実彼は、コンパスを使って方角を定めた復帰を何度も試みている。
 わたしもリングワンダリングの経験はあるけれども、いずれも猛吹雪の雪原や霧の濃い山中など方向感覚を失いやすい条件下であった。果たして顕著な尾根で、リングワンダリングに陥るものなのだろうか?

 以下にバカバカしいとのそしりを受けるのを承知で、私見を述べる。
 山は異界の入り口だとよく言われる。入山したままそれきり戻ってこない登山者も、毎年一定数存在する。彼らは異界とやらに消えてしまったのだろうか。仮にそうだとして、ではその異界というのはいったいなんなのだろうか。

 何度も歩いた勝手知ったる山に登っている際、ふと違和感を覚えることがある。この峠にこんな指導標は建っていただろうか――。この尾根の踏み跡はこんなに薄かっただろうか――。山に親しんでいる読者にならわかってもらえるはずだ。

 山域にもよるが、山にはめったに人が立ち入らない。もの好きな登山者がときおり訪れる程度で、大部分の時間帯は人のいない無人の山岳地帯が茫漠と広がっている。
 量子力学のコペンハーゲン解釈には、人間が事象の波動関数を「観測」によって収束させているという仮説がある(人間原理)。人間が物事を「見た」瞬間、それが契機となって幾通りにも重ね合わせになっていた事象が確定するという、例のたわごとである。〈シュレディンガーの猫〉のことだと書けば、大半の読者にはわかってもらえるだろう。

 コペンハーゲン解釈はあくまでミクロ事象から演繹された哲学的な知見であって、マクロな現実を支配しているのは堅牢なニュートン力学である(はずだ)。

 それでもわたしはこう考えずにはいられない。山には人間がほとんど訪れない。事象を観測して波動関数を収束させる媒体がいない。そんなときの山々というのは、どんなふるまいをしているのだろうか。グニャグニャと尾根や沢が同時に重なり合う、量子力学的な混沌とした風景なのだろうか。

 遭難者が迷い込んだのは、そんな未観測のたゆたう山だったのだろうか。

     *     *     *

 この事件以来、わたしは伊吹北尾根にどうしても足が向かなかった。
 だがキャリアを積んでいくうち、近隣の山々をすっかり登り尽くしてしまった。山屋というのは未踏峰にとかくこだわる。それがたとえ標高10メートルであってもだ。
 そういうわけで数年前、わたしは伊吹北尾根に凱旋を果たした。例の消防団捜索から10年が経っていた。

 5月上旬、その日は季節外れの炎天となった。
 国見峠に車を停め、北尾根の奥座敷であるブンゲンを目指して歩いていく。その過程で到達する1座目が虎子山であり、その手前に双耳峰である虎子山南峰がある。

 不吉な思い出のある南峰には滞在せず、虎子山のほうで一服する。山頂には山岳名の記載された銘板があり、〈干支の山 虎巣山〉と書いてある。

 なにかがおかしい。頭の片すみでアラームが鳴り響いている。もう一度銘板を確認する。絶対に間違いなく〈干支の山 虎巣山〉と表記してある。

 消防団捜索の際、わたしたち3人は虎子山を「とらこやま」と誤読していた(実際の読みは「とらすやま」である)。確かにそのやり取りを覚えている。これはわたしの記憶が10年のあいだに風化したにすぎないのだろうか。
 しかしもし漢字が〈虎巣山〉であれば、〈とらこ〉とは読まずに〈とらす〉と素直に読めたはずだ。この10年のあいだに何者かが漢字1文字を書き換えたのか? なんのために? そもそも銘板にそうした形跡は見られない。

 荒井と西田に確認することはできない。消防団を(円満とは言いがたい形で)退団したあと、わたしは岐阜市内に逃げるように引っ越して彼らとの縁は切れている。たとえ連絡がついたとしても、とても聞けなかっただろう。
 回答次第で、わたしはコペンハーゲン解釈の人間原理を信じざるを得なくなるのだから。

 伊吹北尾根界隈には、それから一度も入っていない。
 虎子山――あるいは虎巣山――の銘板がまた変わっているのを目の当たりにしたとき、果たしてわたしは正気を保てるだろうか。
 そもそもいま、わたしがいるこの世界は15年前と同一の宇宙なのだろうか。
 わたしにはわからない。わかりたくもない。

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