杖をつくような音、布と地面が擦れる音。そしてあの時海から聞こえた、男の歌声。波の音。それらが段々と、押し入れまで近づいてきた。
「ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、」
それは押し入れのドアを蹴破る勢いで叩いた。鍵がかかっているのは知っていても、裏からドアを破られんようにと抑えた。だがそのパワーに人間は敵わず、ドアがメキ、バキと音を立てた。破られるのは時間の問題だった。そして恐怖すればするほど、歌声が次第に大きくなっていった。カタカタという機械的な音が響き、腐った魚の臓器のような悪臭が鼻を突き刺した。
塩はもう4分の1しか残っていなかった。それ以外は真っ黒に朽ちて、それからも腐卵臭が漂った。
ドアがメキメキと音を立て、一部に亀裂が入った。そして私は全ての力をふりしぼりドアを抑えた。塩はみるみる減り続ける。
次第に腕がきつくなり、またドアを殴る衝撃が骨に響いて、骨の方が割れそうな激痛に苦しんだ。でも、私はドアを抑えることを辞めなかった。
だがある瞬間、物置のドアの鍵がバチンと音を立てて折れた。白い塩は残ってなかった。私は反射でドアから離れてしまい、ドアがキィーーと音を立てて開けられた。
そこには巨大な影、海で見た男が笠を被って杖を突き、そしてほのかに笑って立っていた。下半身は人魚のような、人の造形を強引に魚にしたような形になっていて、その一部が壊死し悪臭を放っていた。手には血にまみれて目がくり抜かれたあのブリがあった。それは大声で歌を歌っており、夜の闇の中で圧倒的な存在感を放っており、それを見た瞬間体が金縛りのように動かなくなった。
彼の腕がキシキシと音を立て、こちらの顔につかみかかった。彼の手のひらに着いていたブリの血と彼のドス黒く粘った体液とが顔全体につき、何も見えなかった。私は恐怖であーという声しか出ず、何も見えず、力は入らず、人形のように体をだらんとするしか無かった。
だがその瞬間、家の外に車が止まる音がした。その瞬間、体に力が入るようになった。私は視界がないまま、なんとなくの感覚で窓まで駆けた。ダダダダダと細かい足音が後ろから聞こえた。でも窓までは1メートルもない。私は全力で駆け抜け、そして窓を割って外に出た。私の背中を、あの汚ったない手が掠めた。
外から村長の声がして、村長の手に引かれるまま軽トラに乗せられた。アルコールとタバコの匂いが混じったウエットティッシュで顔を拭かれ、私はようやく視界を取り戻すことが出来た。そして軽トラは動き出し、家から走り去った。サイドミラーには、家の前でこちらをじっと見つめ、にっこりと笑いかけてこちらを見る巨大なシルエットがあった。
私たちは高速道路に乗って別の県まで行き、その日は寺に泊まった。まあ寺と言っても、あくまで気休めだが。
ーーー
私は何度も何度も村長に何が起きたのか、なんで助けに来たのかを聞いた。しかし村長はまた黙りこくってしまった。分かったのは、目を合わせては行けないこと、笑いかけられては行けないことのみ。それ以外は、二度と漁はするなと言われて終わった。
その数週間後に村長が死んだから、もうこの正体は分からない。でも、彼の死には少し疑念に思うところがある。彼の死体が、妙に魚臭く、黒く壊死していたことだ。これ以降、海に近づく気は失せた。

























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