四国平定をした秀吉は、今度は惣無事令に反した薩摩の島津氏を討伐するために九州征伐を開始します。この時、長宗我部氏も先発隊としてこれに参加します。ですが、この戦いは激戦となり、豊臣方は敗退、長宗我部氏も嫡男の信親をこの戦で亡くしてしまいます。元親はこの時にあまりのショックから自害しようとまでしましたが、家臣に諫められて逃げ伸びています。
この時から、長宗我部元親の歯車が狂い始めます・・・。
嫡男信親は非常に優秀な逸材とみられており、織田信長との同盟の時には信長から「信」の一字をもらい、名前を信親にしたほどだと言われています。その信親を失ったことが本当にショックだったのでしょう。この時の元親にはかつて鬼若子と呼ばれた時のような勇ましい姿は既になく、片意地で、それまでの度量が失われているように感じられたと言われます。
信親亡き後の後継者選びでもその変化が見られます。なんと元親は、次男や三男を差し置いて、四男の盛親に継がせようとするのです。これは、歳の近い信親の娘と結婚させて、なんとしても信親の血筋を残そうとしたからだと言われています。
ですが家臣の中にはこれに反対する者もおりました。それが吉良親実です。
長宗我部の家督については、すでに秀吉から次男の香川親和(香川家へ養子に出していた)にするようにと朱印状が届いており、つまり、四男を嫡男にするということは関白秀吉の命に背くことにもなります。また「家督は年長者が継ぐべきこと、叔父と姪の関係になる2人の婚姻は人道に反する」として強く反対していました。
元親はこの諌言をした吉良親実をだんだんと疎ましく思い始めます。本来ならば諌言をしてくれる家臣は良い家臣のはずなのですが、なんとしても信親の血を残したいと考えていた元親の耳には入りません。
そんな折、側近の久武親直が「このままでは吉良親実は次男親和を擁立して何をしでかすかわかりません」と危機を煽ります。
実は久武と吉良は日ごろから犬猿の仲でもあったのです。
永禄10年(1567年)に松永久秀の焼き討ちにより焼失した東大寺の大仏に代わり、秀吉が新たな大仏の建立を目指します。それが方広寺であり、天正14年(1586年)から大仏を安置するための寺院建立が開始されます。この寺院建立のために長宗我部領からも木材を伐採して運び込んでいましたが、その作業に当たっていたのが久武親直でした。親直はその場に居合わせた吉良親実を無視。その態度に怒った親実が矢を射かけると、それが親直の笠に当たってしまいました。そんなつまらないことから二人のいざこざは始まったと言われます。
元親はこの久武の進言を聞き入れ、とうとう吉良親実に切腹を命じてしまいます。
親実が切腹の命を受けたのはちょうど碁を打っている最中でした。
親実は打ちかけの一局を収めた後、沐浴し体を清め、半膳の食事をしたためました。そして「主に過ちある時は諫め正すのが自分の責任である。奸悪の者共が主に過ちを犯させ、忠臣を殺そうとしている。主の衰運は火を見るよりも明らかである」そう恨み言を言いながら切腹を遂げました。
これだけにとどまらず、元親は続いて数日の間に、親実の旧臣であり親実に組していた永吉飛騨守ら七人をことごとく討ち果たします。
もっとも、これも謀反を恐れて四男を守るためだったと考えれば、戦国時代にはよくあったお家騒動だったのかもしれません。(これが本当に謀反だった場合ではありますが)
この後、吉良親実ゆかりの地で亡霊が目撃されるようになり、ここから怪異がいたるところで現れはじめます。
主のいなくなった蓮池城では夜ごとうめき声をあげて人馬が宙を駆け回り、親実の墓や長宗我部家の城周辺でも火の玉が出現したと言われます。またこれらを目撃した人間は命を落としたとも言います。
そしてそれらの怪異は、宿敵である久武親直の周辺でも起き始めます。
ある時、謎の老婆が親直の屋敷に現われ。次男を抱き上げました。
その晩から次男は意識不明の重体となり看病の甲斐なく亡くなってしまいます。
次男の37日目の忌日には、長男が発狂して仏間に閉じこもり、さらにその37日後に仏間で切腹して果ててしまいます。長男は死ぬ間際に「城から上使が来られた、腹を切らねば」と言い残しています。また、久武親直の妻もその後発狂し、そのまま亡くなってしまいました。他にも、久武親直には8人の子供がいたのですが、そのうち7人までが短期間のうちに亡くなっています。
城には火の玉だけではなく、白馬に乗った首のない侍や、鉄棒を持った大入道などが現れるようになり、さすがの長宗我部元親もこれを放置できなくなり吉良親実の供養を行うよう命じました。多くの者が祈りを捧げ、僧侶が読経する最中、祭壇に置かれた吉良一族一党の位牌はガタガタと音を立て動き出し、空へ向かって飛んでいったと言われます。
結局、供養は効果なく終わり、元親は怨霊を鎮めるために木塚明神を祀りました。
これが現存する吉良神社となります。
これ以来土佐では、昨日まで元気だった人が急に病に倒れたりすると「七人ミサキに憑りつかれた」と言うようになったそうです。(吉良親実を入れると8人になりますが)
七人ミサキは常に七人で行動する亡霊の集団。
もし誰かが七人ミサキを目撃し、その呪いを受けて死亡すると、新たな犠牲者が霊の一員となり、元々いた霊のうちの誰かが成仏するか消滅すると言われています。つまり「一人が加わると一人が抜ける」という仕組みになっており、これが永遠に続くと言われています。
神社やお寺、道祖神など見かけると反射的に手を合わせて拝む方がいらっしゃいますが、みなさんもお気を付けください。自分が今拝んでいるのは、もしかしたら強烈な恨みを鎮めるために作られたものかもしれない・・・ですからね。
























画像、載せられませんでしたね。残念。奇々怪々さんにはバグがありますね。
これでちょっと『信長の野望』で長宗我部を選んで戦うのが面白くなりそうですよね。
↑うんうん
六月投稿が多くて嬉しい
kanaさん無理しちゃダメだよー
(倒れて投稿見れなくなったら困る)
↑コメント感謝!!kanaです。
ただいま通院中~。でも、マックは食う。