ただし、残念ながらこの手紙は現存しておらず、ルイス・フロイスの日記に記録されているだけですので、どこまでが真実かは判明しておりません。ただ、異教徒の宣教師がわざわざ仏教の第六天魔王を創作だけで書き残したとは考えられず、おそらく本当にあった出来事なのだろうと思います。
実はそんな信長もビビったという怪談が残っています。
大坂・堺に『妙国寺』という日蓮宗のお寺があり、寺の境内には蘇鉄が植えられていました。蘇鉄と言えば、ヤシの木に似た植物で、今でも古いお宅やマンション、あるいは駅のロータリーなんかに植えられているのを見かけることもある生命力の強い植物です。一見すると外国産のように思えますが、実は日本には九州原産の蘇鉄があり、れっきとした在来植物です。ただ、自生していたのは九州や沖縄であったので、当時の堺でも蘇鉄は非常に珍しい植物であり、見物人も多くあったようです。その蘇鉄がだんだんと枯れ始め、いろいろ手を尽くしたもののついに枯れてしまいました。
そこで妙国寺は56人の僧を招聘し、法華経千部を転読。すると枯れた蘇鉄が蘇ったというのです。その話は瞬く間に広がり、物見の客も再び大勢訪れました。
この妙国寺の蘇鉄の話は信長の耳にも伝わっていきます。この時、安土城を築城した信長は全国各地の銘木を集めようとしていたため「世間を惑わし、政道の妨げなり」と因縁をつけるような形で、半ば強引にこの蘇鉄を安土城に移植させました。
信長は安土城の天守からこの蘇鉄を眺め「げに稀代の大木かな。愛すべき物なり」と大変気に入ったようでした。
その夜、信長は夜更けに目覚めてしまい、なかなか寝付けずにいると、広庭の方からしわがれた声が聞こえてきます。耳を澄ましてよく聴くと「妙国寺へ帰ろう・・・妙国寺へ帰ろう・・・」という声が聞こえてきました。
信長は小姓の森蘭丸を呼び、声の主を見てくるよう命じます。そこで蘭丸が見たものは、妙国寺から移植した蘇鉄たちが、妙国寺へ帰りたいと訴えている姿でした。この時の絵が「蘭丸蘇鉄之怪ヲ見ル図」として都立中央図書館特別文庫室に所蔵されています。
この事態にビビった信長は、菅谷九衛門に命じ士卒300人で蘇鉄を切るように向かわせました。しかし、斧を振り上げて切ろうとしたその瞬間、突然倒れ、血を吐きながら悶絶しだしたというのです。(絵本太閤記) 尚、別の資料では切られた蘇鉄の方が血を吹いたという話や、毎晩ヒューヒュー~と音を立てて、血の様な赤い雨を降らせたともあり、諸説あるようです。
いずれにしろその怪異に唖然とした信長は「魏の曹操は濯龍園の梨の木を伐って死んだ。古木の霊は犯すべからず。この蘇鉄もこのまま妙国寺に返すべし」としてただちに蘇鉄を妙国寺に返すことにします。曹操の逸話も知っているところが博識ですね、信長は。
尚、別資料では妙国寺に戻された蘇鉄は傷がひどく弱っていたため、日珖上人が法華経千部を通読したところ、満願の日に蘇鉄の木から翁が現れ「鉄分を与え仏法の加護で蘇生すれば報恩する」と伝えたあり、蘇鉄の根元に鉄くずを埋めたところ、再び樹勢を取り戻したという話もあります。この逸話から『蘇鉄(鉄で蘇る)という名前が付いた』という話もありますが、蘇鉄はそれ以前から蘇鉄と呼ばれていますので、この話はこじつけのようです。
また、この事件をきっかけに法華宗に改宗する者が激増し、中には増長して他宗派を攻撃する者が現れたため、あの有名な法華宗と浄土宗が信長の前で争った『安土宗論』につながったとなっています。
さらにおもしろいのが「絵本太閤記」を元に作られた浄瑠璃「絵本太功記」では、法華宗の僧をかばって懲戒を受けた武智(明智)光秀が本能寺の変を企てるという筋書きになっており、それがもし事実ならば、信長は蘇鉄の呪いによって最期を迎えたことになります。魏の曹操のように。
そういえば本能寺では森蘭丸も一緒に討ち死にしていますよね。
信長の死は、果たして蘇鉄の怪異のせいだったのでしょうか。
ちなみにですが、この妙国寺の大蘇鉄は、国内最大規模となっており、幹が大小120本もある樹齢1100年の巨大な株で、大正時代に国の天然記念物に指定されています。また天然記念物としては他に例のないほど文献記録に多く登場しており、古くから人々に知られていた存在のようです。
また、これも余談ではありますが、蘇鉄は見た目に似合わず食べることが出来ます。
食べると言ってもそのまま食べるのではありません。なぜなら蘇鉄にはサイカシンという毒が含まれているからです。このサイカシンは水溶性ですので、蘇鉄を摺ってよく水に浸し、毒抜きをするとでんぷんが得られ、それを団子にしたり味噌に加工したりして食します。蘇鉄は生命力が強いので、飢饉の時の貴重な食料として植えていた土地もあったようです。
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【その③長宗我部元親】
豊臣政権時代、四国の土佐を治めていたのが長宗我部元親でした。
四国と言うと、あまり戦国時代に関係ないように感じる方も多いかと思いますが、実は淡路島を介して京都・大阪に近く、信長の前の天下人として有名な三好長慶や、将軍足利義輝を暗殺して戦国の混乱を招いた三好三人衆は元は四国の出。信長に追い詰められると四国に逃げ、本願寺光佐や雑賀衆が根強く抵抗を続けられたのも四国からの物資補給があったからと言われています。
また、信長を死に追いやった明智光秀が謀反を起こす原因となったのも、一説には四国への侵攻があったからとも言われています。長宗我部氏は明智の家臣、斎藤利三の異母妹を妻として迎えていたため、明智光秀と斎藤利三を介して織田信長と同盟を結ぶことに成功します。
しかし後に情勢が変わり、信長は手のひらを返して長宗我部氏と対立します。自分が仲介して同盟を成し遂げた相手を何度も裏切ることになる光秀は悩んだはずです。
結果、信長は三男の信孝を総大将にして四国攻めを行おうとしていたのですが、その矢先に本能寺の変が勃発したため、長宗我部氏は生き残ることができたのです。
余談ですが、斎藤利三の娘がのちに大奥を創設した『春日局』であり、徳川時代に権勢をふるうようになります。この娘を匿ったのも長宗我部氏だと言います。
また、徳川が斎藤の娘を重用したことを考えると、徳川は明智の謀反の理由を四国攻めが原因と考えていた可能性もありそうです。
さて、そんな四国の有力大名である長宗我部氏ですが、最初の頃こそ秀吉と敵対関係にあり、一戦交える覚悟までしていたのですが、そのあまりの戦力差に負けを認め、土佐一国を安堵されて秀吉と講和を結びます。
秀吉と長宗我部氏の有名なエピソードとしてはクジラの献上が挙げられます。
浦戸で捕れた13メートルにもなるクジラ1頭を丸々大坂城の秀吉に献上したという話で、当時の大阪の町は大騒動となり、秀吉もきっと驚いたことでしょう。





















画像、載せられませんでしたね。残念。奇々怪々さんにはバグがありますね。
これでちょっと『信長の野望』で長宗我部を選んで戦うのが面白くなりそうですよね。
↑うんうん
六月投稿が多くて嬉しい
kanaさん無理しちゃダメだよー
(倒れて投稿見れなくなったら困る)
↑コメント感謝!!kanaです。
ただいま通院中~。でも、マックは食う。