「実は、近々再婚することになったんだ」
突然の告白に、私は驚いた。
「もう、このお店にも来れなくなると思うから、最後に話しておきたかった」
Dさんは財布から紙幣を取り出し、それをコースターの下に滑らせると、立ち上がった。
「お相手は……?」
私の問いに、彼は優しく微笑んだだけで、答えはなかった。Iさんなのか、それとも新たな誰かなのか、それは私には分からなかった。
店を出ていく彼の背中を見送りながら、胸の奥がやるせなく締め付けられるような感覚に襲われた。
照明の柔らかな光がカウンターを照らし、彼がいつも座っていた席には、ブランデーグラスの輪染みだけが残っていた。まるで、そこに何かを伝えたかった誰かの痕跡のように。
Dさんに、どうかもう悲しみに囚われない日々が訪れますように。あの小さな足音が、今度こそ誰かを不幸に導くのではなく、優しく包み込んでくれるような未来でありますように。
そう、心から願ってやまない。
――あれ以来、時々閉店後の静かな店内で、小さな足音が、テーブルの周りをめぐる気配を感じることがある。
その度に私は微笑み、グラスを片付けながら呟くのだ。
「いつでも……来ていいよ」と。
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