奇々怪々 お知らせ

不思議体験

アイスノ人さんによる不思議体験にまつわる怖い話の投稿です

足音
長編 2025/05/01 13:00 6,472view

「実は、近々再婚することになったんだ」

 突然の告白に、私は驚いた。

「もう、このお店にも来れなくなると思うから、最後に話しておきたかった」

 Dさんは財布から紙幣を取り出し、それをコースターの下に滑らせると、立ち上がった。

「お相手は……?」

 私の問いに、彼は優しく微笑んだだけで、答えはなかった。Iさんなのか、それとも新たな誰かなのか、それは私には分からなかった。

 店を出ていく彼の背中を見送りながら、胸の奥がやるせなく締め付けられるような感覚に襲われた。

 照明の柔らかな光がカウンターを照らし、彼がいつも座っていた席には、ブランデーグラスの輪染みだけが残っていた。まるで、そこに何かを伝えたかった誰かの痕跡のように。

 Dさんに、どうかもう悲しみに囚われない日々が訪れますように。あの小さな足音が、今度こそ誰かを不幸に導くのではなく、優しく包み込んでくれるような未来でありますように。

 そう、心から願ってやまない。

 ――あれ以来、時々閉店後の静かな店内で、小さな足音が、テーブルの周りをめぐる気配を感じることがある。

 その度に私は微笑み、グラスを片付けながら呟くのだ。

「いつでも……来ていいよ」と。

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