あれはある夏、長い長い残業を終え、疲労と汗で溶けそうな肉体を動かして自宅へ向かっていた。時刻は0時を5分ほど回り、元々閑散としている住宅街ということもあって、人影一つ見当たらなかった。
この壮大な住宅街の家々を支配するような感覚は、残業の日の唯一と言っていい娯楽で、なおかつ残業の終わりを暗に示すものだった。今だけは、明日の仕事を忘れられる。ただその日は疲労が上回り、静かさ、眠気という条件とともに眠気となって自分に返ってきた。
実際、当時はほぼ瞼は開いていなかったと思う。ほんの少しの、瞼の陰を避けて見える景色だけを頼りに、私は歩いていた。
もう家まで数分というところで、少し目が覚めた。奥から、こちらへ踊りながら歩いてくる一つの人影が見えたからだ。それと同時に、何か歌うような声が聞こえてきた。知らない歌だ。
妙に耳に残る歌で、しかもかなりの美声だった。日本の民謡のような古臭い歌で、尺八などと合わせたらとても綺麗になりそうな感じだ。踊りはフラフラでキレがなかったが、酔っぱらいならこんなものだろう。ちなみに人影は163センチくらいの男だった。
私は何を思ったか、
「こんばんは」
と、挨拶をしてみた。影は一瞬ギョッとしたような素振りをみせたが、上着のフードを顔を隠すように被ると、すぐに歌と踊りを再開した。返答はなかった。ムキになってもう一度、
「こんばんは」
と挨拶をしたが、またもや返答はなく、私の声は闇の中に溶けるように消えていった。周辺は嫌な雰囲気が流れ、すれ違うのが気まずかった。
すれ違う瞬間踊る男の真横を通る時に、何か違和感を覚えた。フッと横を向くと、男は目をカッと大きく開いて血走らせ、こちらを見ていた。顔は一切こっちを向いておらず、ただ眼だけがこちらをじっと睨みつけるような感じだった。
男の視野から外れた瞬間、男は歌をやめた。代わりにか、もっと踊りがクネクネフラフラと激しく大きくなった。不気味なほどの静かさだった。
私は振り向いてはいけないと思うようになった。息を止めて足早にその場を去ろうとした。男は狭い一軒家に向かい、この不気味な事件は幕を閉じたはずだった。
そこから2時間後くらいのことだ。私はその時眠っていたのだが、やかましい物音で目が覚めた。サイレンだ。外は大騒ぎで、私も乗じてベランダから外を見てみた。
夜を昼と錯覚させるほど明るく、住宅街から火柱が上がっていた。燃えているのは、さっきあの男が入った家だ。消防車が燃え盛る火を消し、救急車がサイレンを響かせながら到着すると、またそそくさと病院へ向かっていった。
一週間ほど後、警察の事情聴取を受けた。防犯カメラで映った私が、犯人とコンタクトを取っているように見えたかららしい。そこで聞いた話によると、0:10ごろ、男はその家の住民を包丁で刺した後、火を放ったらしい。また、男がその後私の家の周りを2時間ほど歩き回っていたことも聞いた。
「防犯カメラの映像で、男が踊るような様子が確認されているのですが、何か他に不審な行動はありませんでしたか?」
「男は歌い踊っていて、すれ違う時に歌をやめ、こちらをじっと睨んできました。あと、少し相談があるのですが…」
「どうしました?」
「男が踊っていた踊りと歌っていた歌は、知らない曲のものでした。なのに、ずっと頭に残っています。今でも完全に歌と踊りを再現できるんです。
そして何故か深夜に道を歩いていると、
体が勝手にその曲を歌い、フラフラと踊りながら歩いてしまうんです。だんだん男に毒されていくようで苦しいです。あの、これって何かの病気でしょうか」
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