都内で働き始めて2年。仕事にも人間関係にも慣れはじめ、日々の緊張感が少しずつ薄れていたある秋の夜、僕はいつものように疲れた体で会社を出た。
その日は出張で千葉の取引先へ行っていて、帰りが遅くなった。上司との会食もなく、直帰扱いでそのまま駅へ向かった。時間は22時半を回っていたと思う。平日の終電間際、人通りの少ないホームに立っていると、どこか時間の流れが止まったような気がした。
電車がホームに滑り込んでくる。僕は最後尾の車両に乗り込んだ。中にはほとんど人がいなかった。4人ほどがバラバラに座っていて、皆、無言でスマホや本に目を落としている。
同じ車両の少し前のほうに、同期の加納がいた。彼も今日は直帰で、最寄り駅まで同じ方向だ。軽く会釈だけ交わして、それぞれ席についた。
僕は、いつものようにスマホを取り出し、YouTubeで音楽を流しながら、窓際の席に体を沈めた。
疲れていた。目を閉じるとすぐにでも眠れそうだった。
けれど、しばらくして、ふと目を開けた瞬間、ある違和感に気づいた。
外の景色が……違う。
見慣れた町並み、コンビニの灯りや、住宅街の明かりが消えている。真っ暗というわけではないが、どこか霧がかかったように視界がぼやけている。そして、駅に着いたはずなのに、アナウンスが聞こえてこない。
いや、次の瞬間、小さな音量で車内アナウンスが流れた。
「……つぎは、くちなし〜、くちなし〜……」
くちなし?そんな駅、あったか?
座り直してスマホの路線アプリを開こうとしたそのとき、ふと視線を上げた車内に、さっきまでいなかった乗客が座っているのに気づいた。
6人。みんなうつむいていて、動かない。
どこから乗った?と思ったが、駅で誰かが乗り込んだ記憶がない。
背中がひやりと冷えた。
次のアナウンスは「しじま」。その次は「ゆうやけ」。どれも聞いたことがない駅ばかりだった。
車内の乗客は徐々に増えていた。ざっと見渡しても10人を超えていたが、誰一人、顔が思い出せなかった。
……いや、正確に言えば、「見えているはずなのに、覚えられない」のだ。
全員がうつむいていて、顔が陰に隠れている。そのせいだと思いたかったが、視線を合わせようとすると頭が痛む。まるで“見てはいけない”ものを見ようとしているかのように。
音もない。車内は完全に沈黙していた。車輪の音すら、何かに吸い込まれているようだった。
「つぎは〜、ななつめのえき。終点です」
そのアナウンスは、やけに明瞭だった。今までよりも大きく、はっきりとした声。それを聞いた瞬間、乗客たちが一斉にゆっくりと頭を持ち上げた。
そこに、顔は……なかった。
のっぺらぼう。いや、顔の輪郭はある。でも、目も鼻も口も、まるで“削り取られた”かのように何もない。
目の前の女性が、俊介、と僕の名前を呟いた。唇もないのに、はっきりとそう聞こえた。
「あなたで、七人目」
その瞬間、僕の耳の奥で「ひとり、ふたり……」という囁き声が始まった。
ドアが開かない。
僕は立ち上がってドアに駆け寄ったが、まるで接着剤で封じられたかのようにビクともしない。
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