ありがとうって伝えてね

ある年の梅雨、大雨が続いていた日の事です。

その日は仕事が早く終わり、夕方５時過ぎには家の最寄りの駅に着きました。
薄暗いうえ大粒の雨で足元が悪く、前も見ずらい状況。
早く帰ろうと足早に歩き、自宅アパートに着きました。集合ポストからチラシなどを取り傘を閉じようとした時です。

傘と地面との視界にグレーのスウェットと青いサンダルを履いた足が見えました。

傘をぱっと上げると同じアパートに住んでいる下の階のお父さんでした。
娘さんと二人暮らしで、見かけると挨拶をする程度の関わりです。

この日も「こんにちは。よく降りますね。」と言いました。
お父さんは何か言いましたが土砂降りの雨音で聞き取れず、「ん？何ですか？」と聞き返しました。

するとかすかに「あの、あの、ありがとうって伝えて。ありがとうね。」と聞こえました。
そして階段を登っていき玄関を閉める音がしました。

その時の違和感になぜ気付かなかったのか今でも不思議ですが、お父さんは傘を持っていませんでした。
さらに髪もスウェットも濡れていましたが、なぜか顔だけ青白くカサカサした感じで濡れていませんでした。

雨に濡れたサンダルの足跡が階段に続き玄関で終わっているのを見届けて、私はそのまま上の階まで登って帰宅しました。

翌日、同じアパートの人に会い話していると「〇階の〇〇さん、残念だったね」と言われ、そこで初めて一昨日あのお父さんが亡くなっていたということを知りました。
昨日会ったお父さんは一体何だったのか。

愕然としましたが「ありがとうって伝えて」というのは誰に伝えれば良いのかしばらく考える日々でした。
未だ答えは出ていません。