昔、出雲の国に、絹を織るのを生業とする女があった。
その名を「志乃」と言った。
志乃はまだ若く、夫も子もなかったが、その手業は村一番とうたわれていた。とくに耳にあてたとき、すう……と風のように響くほど薄く、美しい布を織るというので、人々はそれを「絹の耳」と呼んだ。
志乃が糸を染め、織るのはいつも夜のうちだった。
朝になると、機(はた)の音もなく、ただ細い布が一本、戸口の前に掛けられているだけであった。村人たちはそれを買い求め、祭りの装いや、祝いの品に使った。
あるとき、隣村から旅の法師が来た。風雨に難儀し、志乃の家に一夜の宿を乞うた。
志乃は無口にうなずき、火鉢の炭を掘り起こして客を迎えた。法師は歳若く、声も穏やかであった。
夜が更けると、法師は不思議な話をした。
「この世には、音を食うものがいるそうです」
志乃は眉も動かさなかった。
「音を食う?」
「はい。人の口音、鳥のさえずり、風のそよぎ――そういったものを少しずつ、少しずつ食って生きるのだそうです。中でも、人が忘れた声が、いちばん美味なのだとか」
志乃は火鉢の灰をつついた。
「……忘れた声?」
「そうです。たとえば、幼子の泣き声や、老いの寝言――死者のことば。もう誰も聞かない音。そういうものです」
それを聞いて、志乃は初めて、わずかに口角をあげた。
「……それなら、わたしの布も食べられてしまうかもしれません」
法師はその言葉の意味がわからず、ただ微笑んだ。
その夜、法師は志乃の家に泊まったが、ふと夜中に目を覚ますと、どこかで「キリ……キリ……」と細い機の音がする。
音は、すぐそば――いや、頭の上から聞こえるようでもあった。
家の天井を見上げても、闇が広がっているだけだったが、耳を澄ますと、確かに誰かが機を打っている。
不思議なことに、その音を聞いていると、心が妙に静かになる。何か、大切なことを思い出しかけて、けれど届かぬような――そんな気持ちになった。
翌朝、法師は旅立った。
志乃は戸口に一筋の布を掛けていた。それは、淡い灰色の地に、かすかに金の縞が通った、これまで見たこともない美しさだった。
法師は礼を言って去ったが、その後も、奇妙なことが胸に引っかかったままだった。
数年後、再びその村を訪れたとき、法師は志乃の家を訪ねた。
だが、家はすでに朽ちかけており、戸も半ば崩れていた。
近くにいた老婆に尋ねると、志乃は三年前に亡くなったという。
「最後は耳が聞こえんようになってな。それからは布も織らなんだ。機の音もしなくなって、ようやく静かになったもんじゃよ」
法師は奇妙に思った。志乃は静かに布を織っていた。機の音など、聞こえた記憶がない。
























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