ある老女の怖いもの
投稿者:LAMY (11)
人には誰しも怖いものがある。
金井さんは、「泣く子はいねが」の脅し文句でおなじみの「なまはげ」がどうも苦手なのだという。
「子供を探しに来るっていうのが、駄目でねぇ。思い出しちゃうからねぇ……」
そう言って苦笑いした彼女は、何もなまはげそのものを恐れているわけではない。
怖いのはなまはげではなく、「泣く子はいねが」の方なのだ。より正しくは、「子供を探しに来るもの」と言うべきか。
歳を重ねて痩せ、小さくなった背中を丸めて、金井さんは私に語ってくれた。
金井さんは当時、幸せの絶頂にあった。
十年以上もの健全な交際を経て一緒になった夫は優しくて稼ぎもよく、間に生まれた子供も医師の太鼓判をもらうほど元気な赤ん坊だった。
もちろん大変なこともたくさんあったが、それでも金井さんは毎日楽しくて仕方なかった。
そんなある日のことである。
金井さんが赤ん坊を寝かしつけて、台所で夕食を拵えていると、ふと視界の端で何かが動いた。
驚いて視線を向けると、勝手口の磨りガラスの向こうに人と思しき影が立っている。
子供にしては背が高いが大人にしては低い。何となく女性的な印象を受ける輪郭だった。
金井さんの家の台所はガスコンロのすぐ左隣に勝手口があるため、火を使う料理をしている時には常に視界の端に戸が写るようになっていた。
一瞬警戒したものの、この地域は年配の住民も多い。
よその家との距離感が昔のそれから抜けきっていないご近所さんが、何かおすそ分けにでも来てくれたのかもしれない。
そう思って金井さんは、「……どちら様ですか?」と声をかけた。
すると磨りガラスの向こうの影は、老女のような嗄れた声でこう言ったという。
『忌み子はいますか。わけてください』
金井さんが出産したことは、近所の人間にも知られていた。
そもそも身籠っている頃から大きなお腹で外を歩いていたし、そうおかしなことではない。
だが、それにしたって度を過ぎた嫌がらせだ。
怒鳴っても咎められない場面だったろうが、しかし金井さんにはできなかった。
「抑揚、っていうの? そういうのが全然なくてねぇ……なんていうのかしら、機械に読み上げさせてるみたいな声だったんですよ」
金井さんが蛇に睨まれたカエルのように動けなくなっていても、お構いなしに影は繰り返した。
『忌み子はいますか。わけてください』
さっきと全く同じ、抑揚のない平坦な声。
彼女はそれまでの人生で一度も霊的な体験をしたことはなかったが、それでもこれが人間ではない何かであろうことは直感的に分かった。
今ここで何か答えないととてもよくないことが起こるのではないか──。
そう思った金井さんは、『いません! うちにはそんな子供はいません!』と必死に声を張り上げた。
すると影は、ぐぐぐ、と磨りガラスに顔らしき部位を押し付けて。
『いるじゃあん』
先程までの平坦な嗄れた声色とは打って変わって、少女のように甲高く弾んだ声で笑った。
ところで、先程『顔らしき部位』という表現を用いたのには理由がある。
幸い磨りガラス越しだったので正確な状態は分からなかったというのだが、押し付けられた影の顔が、人間の肌の色をしていなかったのだ。
真っ赤、だったらしい。血まみれとかではなく、肌そのものがそういう色をしていなければありえないような、一面の赤。
金井さんは這うようにしてその場から逃げ、夫が帰ってくるまで子供の側でがたがた震えていたという。
ゴクリ…
闇を感じるお話
子を成さなかったという悔悛の念はどんどん大きくなるらしい。中年くらいならまだコンプレックスと呼べる物だが。老年に入ると。。
なるほど。ちゃんと忌み子だったわけだ。