どこをどう辿ったのか、正気を取り戻したとき、わたしはお金峠にいた。お金峠はクラシ北尾根の終端部分であり、ここから神崎川へと降りられる薄い踏み跡がついている。山屋の勘とは侮れないものだ。泡を食って無我夢中になっていても、こうしてどうにか元のルートに復帰している。
なんにせよ、ようやく人心地がついた。しかし平穏は束の間であった。〈お金峠〉と書かれた銘板が木にぶら下げてあるのだが、それからは鼻を刺す有機溶剤系の刺激臭が漂っていたのである。いちいち確認しなかったけれども、視界の端におなじみの文句と思われるセンテンスが見切れている。それが〈楽しく安全な登山を〉であることには確信があった。
何者かの狂気が鈴鹿山脈全体を覆っているかのようだった。
* * *
わたしは膝にかかる負担もいとわず、神崎川へと急いだ。真新しい赤インクの状態から察するに、犯行はごく最近に行われている。指導標やリボンを破壊しながら歩く悪意の化身のごとき登山者と鉢合わたいとは思わない。
15:40ごろ、お金明神分岐に到着。分岐点には木にお金明神方面への道を示す手書きの文字が書かれているのだが、こんな目立たないものですら見逃されなかったようだ。わたしはもうさほど驚きはしなかった。ただただ気味が悪かった。
16:00ごろ、お金出合に到着。ここにも手作りの指導標があるのだが、どんな状態なのかは見るまでもなかった。進路を南にとり、大瀞での厄介な渡渉をどうにか水没なしでクリアし、中峠を目指して沢を遡行する。
山中はもうかなり薄暗い。いつもなら夜間ハイクを怖いと思ったことはないけれども、今日だけは避けたかった。下山途中に陽は落ちてしまうだろうが、せめて日没までには地図に記載のある一般道に復帰していたい。ヘッドライトの光輪に浮かび上がる真っ赤な指導標を見たいとは思わなかった。
17:10ごろ、すっかりあたりは暗くなっていたものの、どうにか中峠に着いた。大瀞からわずか30分足らずで駆け上がってきたことになる。堂々の自己ベスト更新だった。ここから朝明渓谷駐車場まで1時間程度の行程である。中峠の下降は中盤に若干険しい部分こそあるものの、地図に記載のある一般ルートである。ここまでこれば陽が落ちても安心して歩ける。
ザックを下ろしてヘッドランプを準備しがてら、秋風の吹き荒ぶ中峠でしばし休憩をとる。すっかり緊張もほぐれ、漠然と温泉やら夕飯やらのことを考える余裕も出てきていた。
「こんばんは」
後ろから不意に声をかけられた。わたしは滑稽なほど大げさに驚いていたと思う。振り返って声のしたほうを照らすと、老齢の登山者が闇のなかにぼんやりと浮かび上がっていた。彼は「いや、すまんすまん」と驚かせたことを詫びながら、もの珍しそうな表情でわたしを見ている。
ナイトハイクを計画に織り込む登山者は極めつけの少数派に属する。夜間は夜行性の動物が活動し始めるし、視野も狭まり深刻な道迷いに陥りやすい。陽が落ちたらむやみに行動せず、ビバークを選択する登山者もいるくらいだ。夜の山で人間に出くわす確率は限りなく低い。老人が物の怪かなにかを見るような目つきになるのも当然であった。
「兄ちゃんはこれから下山かね」
「深部で道に迷ってしまって。相当肝を冷やしましたよ」
「ほう、深部ね」老人は興味を持ったようだ。「どのへんで迷ったんだい」
「恥ずかしながらわからなくて。無我夢中でもがいてたもんで」
詳しく遭難の様子を話しているうちに、彼がイブネで最近の登山者に一家言を呈していた人物であることに気づいた。
「あれ、お昼にお話ししましたよね」
「あのときの兄ちゃんかい」
先方も思い出したようで、さらに話は弾んだ。
「そうだ、知ってますか。ここらの看板が赤インクで塗りつぶされてること」
「赤インク? なんのことだね」
老人は知らないようだった。鈴鹿深部の指導標だけが徹底的に狙われていると話すと、彼は重々しくうなった。
「ひどいことをする奴がいるもんだな。他の登山者が迷ったらどうするんだ」老人は諭すように続けた。「でも本来なら、看板やらリボンやらに頼らずに歩ける人間だけがバリエーションに挑戦すべきとは思うがね」
正論であった。実力的に分不相応な登山者――その中にはわたしも含まれる――が背伸びをしてバリエーションに挑んでしまうのは、善意によって設置された指導標があるからだ。彼の説諭はわたしが得意げになって語った遭難騒ぎを諫めているようにもとれる。なんとなくいたたまれない気分になってきた。
わざとらしく腕時計を見て、時間が遅いことに気づいたフリをした。
「すいません、18時には下山したいので、そろそろ……」
「おっと、長々と引き留めて悪かった」老人は後ろ手を振って歩き始めた。「それじゃ、楽しく安全な登山を」
























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