子供の頃、学校の行き帰りに、色々な家を覗いて帰るのが好きでした。
綺麗な庭のある家、かわいい犬のいる家、部屋の中で人が談笑するのがみえる家、かつて裕福だった様子なのにゴミが溢れている家、家人が亡くなってから火が消えたようになっている家、、。その中に、画家の家がありました。
墓地の脇の急な崖の下にある家で、天井窓のある吹き抜けのアトリエを道から見下ろすように眺めることができます。アトリエの中では、画家が巨大なキャンパスの前に脚立をおいて、何枚も何枚も大きな空の中に浮かぶ裸婦像を描いていました。こっそり覗きにいくとあからさまに嫌な顔をされますし、悪いなとは思うのですが絵の進捗が気になって、時折見に行ってしまうのでした。郵便受けに借入金の督促状などがぱんぱんに入っていることもあり、子供心に絵が高く売れたら良いのに、でもあんな大きな不思議な絵は売れるのかしらと心配したものです。
ある雨の日の翌朝、授業中に教室の窓からその家を眺めているとベランダに一昨日と同じく布団が干しっぱなしになっています。毎日布団を干す家ではなかったので気になった私は、帰り道に画家の家に向かいました。いつもの道から見下ろすと誰の気配もなく、崖下に降りる小さな階段をおり、家の中庭に向かうと、居間から庭に出る出入り口に取り込んだと思われる洗濯物が散乱していました。
「誰かいますか?」
勇気を振り絞って出ない声を出してみますが、しんとしています。
よくみると、散らばった服の山の下に、ズボンを履いた人間の足があることに気がつきました。激しい動悸に震えながら、一枚、また一枚と身体の上にある衣類をよけていくと、画家の身体があらわれました。身体は硬く冷たくなっていて、亡くなっているのは明らかでした。顔を確かめるためうつ伏せの顔を覗き込むと、彼の左目の眼球がえぐられていることがわかりました。だらりとした眼球が、口元にまで落ちています。
おそろしさに私は動くことができなくなり、ただ後退りしながら立ち尽くしていました。
「ミャー」
振り向くと一匹の黒猫がこちらに向かってきます。
「うわぁぁあああああ!!」
黒猫の左眼が抉られて血を流しているのに気がついた瞬間、私は何も考えられず、ただひたすらに走って逃げました。そして数日間、親にお腹が痛いと言い続けて学校を休みました。
階段にはべったり私の指紋がついていますから、いずれ警察が自分を逮捕に来ると信じていたのです。しかし、何も起こりませんでした。
新聞には画家の訃報が死因は心不全として掲載されました。子ども達の間では、家を出ていた画家の息子が殺害したらしいという噂がまわりましたが、大人に聞くとそれは子供の間だけの噂であって、亡くなられたのは病死で間違いないそうよというのでした。もっとも、画家は殺されたはずだと私が言い続けたことが子供たちの噂の出所のひとつだとは思います。
黒猫は片目のまま生き残りました。餌やりをしている近所の人は、この子は生まれつき片目なのよと言いました。それは絶対にない、私はあの日血だらけで私の脚に擦り寄ってきた黒猫の姿を忘れることはできません。きっとショックで怖いものを見たのねと人々は言うのですが、子供だからといって、事実と妄想を簡単に取り違えるわけはないのです。
最後の絵は、裸婦の左眼が描かれず、未完のままその後何年もアトリエに放置されていました。
大人になり、事件の所管警察は事件処理の手間を省くために他殺の証拠がある案件でも事件性なしとの処理を多く行っていることを知りました。死後硬直していましたから、少し時間が経過していたと思いますが、もし私がより早くあそこに行っていたら、抉られたのは猫ではなく、私の左眼だったかもしれません。
異変に気がついたとき、くれぐれも一人で行動しないこと、何より他人の家を覗きみることを楽しみにしないこと、そう思った出来事でした。
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