これは私自身が経験した本当の話ですが、人に話しても今まで特に悪いことなどは起きていません。
15年ほど前、友人と女性同士、道東を旅行し、湯治宿に泊まりました。地元の人も日帰り入浴にくる源泉です。
夜中に目が覚めると金縛りになり、昼間のトレッキングの疲れかと思いました。何とか目だけ動かし隣をみると、友人が誰かに首を絞め上げられているように苦しそうに身をそらせています。私は友人を助けなければと思いましたが身体が動かず、それ以上に自分の身に悪いことが降りかかるのが怖くて、ただ息をのんでその様子を見ていました。
ほどなく一番鶏がなくと、私の金縛りも解けて、彼女も穏やかな様子となり、まもなくガイドの人が迎えにきて何事もなかったように私達は次の日の予定を楽しみました。私は、彼女が苦しそうにしていても助けなかったことが後ろめたく、このまま何事も起きないなら彼女に嫌な思いをさせたくもないので、夜の話はしないでいました。しかし、彼女の方からポツリと自分は昨夜何かに取り憑かれた気がするというので、自分の見たことを話して、謝罪しました。
その夜は、長距離フェリーで関東に帰る旅程でした。船の上で昨夜の出来事を話しながら、私たちはおそろしさを感じましたが、その手のものは土地に憑いていることも多いし、日中も何もなかったし、忘れようということでフェリーの大部屋で雑魚寝の床につきました。
その夜中、隣に寝ている彼女が寝ている私の背を揺さぶってきました。怖くてトイレにでも付き合って欲しいのかと思い、寝返りをうって彼女の方を向くと、大きな目をじっと見開いてこちらを見てきます。どうしたのかと聞いてもただ無表情に時折まばたきしたり、口を開けたり閉じたりするだけで声も出しません。埒が開かないので、もう寝るよといって背を向けると、しばらくするとまた私の服を掴んで何度も引っ張るのです。
彼女は翌月に恋人との結婚を控えていました。あの宿は温泉好きの私がこだわって予約したもので、そんな気まぐれで彼女の幸せに影を落とすわけにはいかない、昨夜は臆してしまったけれど、今夜はしっかりしなくては。
そう心に決め、後ろを振り返り、彼女に憑いている何かに向かって、何か言いたいことがあるのか、元いた土地に帰らないのか、どうしても必要なら彼女ではなく私に憑いてくれないか、何か希望があるのか、など延々と説得を続けました。他の旅客を起こさぬように小声ではありますが、心を込めて必死に話し続けましたが、彼女の身体は何かを話そうとするも声にはならないのでした。朝になるとその憑物の気配はまた消えました。
寝不足のまま彼女と食堂で朝食をとると、彼女は、怖かったけれど昨日は何もなくてよかった、ここしばらくで一番深いくらいぐっすりと良く眠れたと嬉しそうに話しました。
私は迷いました。隠さない方が誠実に思えるけれど、話せば彼女を不安にさせてしまう。そもそも、憑物が相手をしたいのは彼女ではなく私で、そのために彼女の身体を借りていたとすれば、この旅が終われば彼女から離れるかもしれない。そう思い、とにかく私もやるので、念のためお祓い的なものだけはした方がよい、結婚するのだし、用心するに越したことはないとだけ言いました。
もうひとつ、思い出したことがあります。
宿に泊まった夕刻、宿の前で車を降りたときに、宿の2階の窓からこちらを立って見下ろしている宿の浴衣を着た女性の姿がありました。私は目があったので軽く会釈をしたのですが、その女性のパーマのかかった髪型が少し古風に感じたことは覚えているのに顔がぼんやりとして浮かばないのです。また、私達の部屋も2階でしたが宿屋の主人は案内するときに2階に上がる階段廊下のあかりをパチリとつけたので、先客がいるのに不思議だなと思ったのでした。
気になった私は、忘れ物を探す体で宿に電話をし、当日他のお客さんもいましたよねと話を向けてみました。しかし、その日は他に宿泊も日帰りも誰もおらず、主と私達だけしか建物にいなかったと言われました。ご主人の奥様は病気で亡くなられ、他の従業員もいないとのことでした。さすがに憑きものの話を尋ねることはできませんでした。
この話はこれでおしまいです。あの憑きものが言いたいことは何であったのか、温泉街の歴史や新聞記事、宿の口コミなどをみていてもヒントになることもありません。生きた人間にしか見えなかった女性が心霊なのかもわかりません。
友人は無事結婚出産し、幸せに暮らしています。ただ、旅行以降は何となく疎遠になってしまいました。何か特別なことはなかったかと尋ねても、少し嫌そうに何もなかったから、もうその話をしないでと彼女はこたえるばかりです。
よく分からないです。
実話なので物語性には乏しいかもしれません。