廣中(ひろなか)という男がいる。
小さな広告代理店で働いているらしい。彼を初めて見かけたのは、先月のことだった。
ある深夜、僕はマンションの前にある小さな公園のベンチに座っていた。
会社をクビになって、家に帰る気になれなかった。缶ビールを片手に、これからどうするべきかと項垂れていた。
そんなとき、マンションから誰かが出てくるのが見えた。スーツ姿の男性で、くたびれた様子だ。
その男(後に廣中と知ったが)はエントランスで立ち止まり、何かを思い出したように空を見上げて溜息をついた。彼の疲れた表情に、どこか共感を覚えた。
僕がもう一本缶ビールを開けていると、彼は再びエントランスから出てきた。手にはゴミ袋。僕は何となく、彼の動きを目で追っていた。
廣中はゴミ置き場に向かい、ネットをめくってゴミ袋を入れた。そこで彼はピタッと動きをしばし止めた。何かに気づいたんだろうか?でもしばらくしてから、肩をすくめて戻っていった。
僕はマンションの前の公園に理由もなく通うようになった。クビになって時間を持て余していたし、家にいるよりも公園にいるほうが気が楽だったのもある。それにあの男の事も妙に気になっていた。
ある日、僕は彼に話しかけてみた。マンションのエントランス前で、偶然を装って。
「お疲れっす」
彼は少し驚いたようにこちらを見た。でも何も言わずに会釈だけして中に入っていった。
翌週、再び彼がゴミを捨てに来る夜、僕は少し離れた場所から彼を見ていた。いつもと同じ動作で、彼はゴミ袋を持ってゴミ置き場に向かう。
でも、その夜は何か違った。彼の影が、街灯の光の下で二つに見えたのだ。一つは彼の足元にくっきりと映る普通の影。もう一つは、なぜか少し遅れて動く、もやっとした影。
まあでも、光の加減で影が二重になることはあるし、多分気のせいだろうと思った。
翌朝、マンションの住人がやたら騒いでいるのが聞こえた。どうやら301号室の住人が行方不明になったらしい。廣中の部屋だ。
「昨日の夜から連絡が取れなくて…」
彼の勤め先の同僚が警察に話しているのが聞こえた。
でも、それはおかしい。昨夜、確かに彼がゴミを捨てに来るのを見た。
その日の夜、僕はマンションの前で彼を待ってみた。予想通り、いつもの時間に彼は現れた。
相変らず疲れた顔で。でも、なぜか表情が少し固い。
「こんばんは~」
と僕が声をかけると、彼はようやく僕に気づいたように顔を上げた。
「あ、どうも」
その声は、少し掠れていた。
「大変だったんですね、警察が来てたみたいで」
「…、警察?」
彼は首を傾げた。
「はい、廣中さんが行方不明になったって…」
「いや、僕は廣中じゃないですよ。人違いじゃないですか?」
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