あるアパートのこと
投稿者:くま (10)
多少気味が悪かったのですが、なにしろこちらはもう時間もないし、これほどの好物件で、こんなに安価な部屋はどこを探してもないと思いました。
それで、「これでいいので」と承諾し、その日、契約を結んだのです。
早速その部屋に住みはじめました。
日当たり良好ですし、まことに快適です。最初の数日間は「なあんだ、心配なかった」と思いました。
ただひとつ弱ったのは、真夜中になると「どん、どん」と壁の向こうから物音がすることでした。女の声も聞こえます。子供のいるアパートだし、夜に言うことをきかない子をおかあさんが叱っているのかな、と思いました。
おかあさんらしい女性の声は、甲高く、怒っているような泣いているような調子で、本当に大変そうです。
子育ては辛いだろうなあ、と思いながらも、眠たいので、起こされてはうとうとと寝て行ったものです。
引っ越して一か月たったころでしょうか。同じ棟の母子と遭遇しました。小学生高学年くらいの男の子と一緒に、おかあさんがアパートに戻ってくるところでした。男の子は重たい買い物袋を持っていて、まことに良い子のようです。
「こんにちはあ、うち騒がしくて御免なさいねえ」
と、おかあさんはにこにこと言います。
わたしは「いえいえ」と頭を下げました。同じ二階なので、一緒に階段をあがり、部屋の前で分かれました。
玄関の扉の向こうで、おかあさんが子供に「ほらあんた、宿題もしてないでしょ」と叱る声がします。なるほど、大変そうです。
違和感に気づき、次にとてつもなくぞっとしたのは、それから間もなくでした。
(あれっ、そういえば、さっきの親子が住んでいる部屋は)
母子が入って言った玄関は、わたしの部屋の向かいです。
というか、このアパートは各階に二部屋ずつしかありません。階段室のような狭い廊下でつながっているだけで、同じ棟とはいえ、隣り合わせではないのです。
しかし、毎晩夜更けに、どんどんと音がし、嘆くような女の声が聞こえるのは壁の向こう側です。
(えっ、じゃあ、どこから聞こえるんだろう)
日常の中で生活に追われていると、こんな単純なことに気づかなくなるようです。
わたしは和室で寝ています。どんどんと音が聞こえるのは、和室の壁の向こう側、つまり、洋間の方からなのでした。
わたしは一人暮らしですし、夜更け、うちの洋間は当然誰もいないはずです。
奇妙なことに、この違和感に気づいてから、夜に変な物音や声は聞こえなくなりました。
ただ、あまりにも不気味だったので、なにかのついでの時に、不動産会社に話を聞いてみたのです。
「そう言えば、以前亡くなったという中年の女性は、あの部屋のどこで亡くなっていたんですか」
部屋を案内してくれたあのおばさんは、一瞬「あ、やっぱり」と言いたげでした。
言葉少なに説明してくれたところによると、以前、あの部屋で変死した女性は、洋間で命を落としたそうです。
ちなみに、急病による病死だったそうですが、鬱病持ちで、だいぶいろいろなことが怪しくなっていたようで、たくさんの薬を服薬していた形跡があったとのこと。
「薬の飲み合わせが悪かったんでしょうかね、あんなことをお話しておいてなんですが、決して事故死や自殺ではなかったので」
とりつくろうようにおばさんは言いましたが、その視線は泳いでいました。
ちゃんと仕事が見つかって安心しました。
二年も、よく頑張りましたね。