私は、ある意味では死にました
投稿者:タナカ(仮) (1)
その後、私は申し訳程度に酒を注文してから、なにかいい加減なことを言って会計を済ませるとその場を立ち去りました。私が店のドアを開けて外に出たところで、一階からこちらに上ってくるひとがいます。ちょうど入れ違いでお客さんが来たのでしょう。ひとがすれ違うのも難しい、狭い階段でしたから、私はそのひとが上り切るのを待っていました。
ところが、その人物が奇妙なのです。
それはジャケット姿の男性客でした。しかし、明らかにサラリーマンではありません。黒っぽいジャケットにデニム履きで、黒縁の丸メガネ、口元がひげに覆われてはいるものの、どうやら年はまだ若く、勤め人というよりは書生といった風情。オールバックに固めた髪はそろそろ床屋に行ったほうが良い長さで、片手にはまるで辞書のような厚さの、緑の表紙の洋書(”Kritik der reinen Vernunft” と書かれているのが後で近づいて来たときに見えました。私も当時大学の授業で読んでいた、カントの哲学書です)が握られています。おまけに、足元は下駄履きでした。これが噂の男に違いありません…。
かん、かん、かん、かん…とその男が、階段の上でわなわなと震えている私の方にもろくに気づくことなく上がって来ます。
ふと、うつむいていた男の顔がようやくこちらを見上げたのですが、その瞬間、私の恐怖はほっと安堵に変わりました。男の顔は、私の顔とは似ても似つかないものだったのです。
私も毎日鏡を覗き込むような整った顔立ちでもありませんが、向こうのひととは鼻筋や顎のあたりの形がまるで違いました。背格好や服装は確かによく似ているものの、あれは明らかに私ではありません。当然ですが。
あまりにもまじまじと彼の顔を見ていたのでしょう。
「どうかしましたか。ああ、通れないのか」
と男は寝起きのような不機嫌そうな声でぼそっと言うと、私の横を「失礼」と言って通り過ぎていきました。私は下駄で降りづらい階段をそれでも駆けて行き、一人暮らしをしていたアパートに逃げ帰りました。
翌日、頭を冷やした私はまた例の店に行ってみる気になりました。
それは第一にあの私とそっくりな背格好の男に興味を持ったからでした。確かに私とほとんど同じような服装や髪型をしているけれども、確かに別人だとわかったいまとなっては、意外と好みが合う良い友人になれるかもしれない、と思いました。カントの哲学書を、それもドイツ語の原書で持ち歩いている、というのも気になりました。どこかの哲学科の学生さんだろうか。しかし、ウチの大学や大学院ではあのひとを見たことがない。どこの大学のひとだろう…と思っていました。
また、私とそっくりな人物が別人であることが確認できたとはいえ、ミヤビさんがどうして私の名前を知っていたのかについては、後になって考えてみても謎のまま残っているのでした。
新しい友人を見つけ、ミヤビさんがなぜ私を知っていたかという謎を解消するため、私は再びその店にやって来たのでした。
「いらっしゃ…あ、タナカさん」
「こんばんは」
「昨日はどうしたんですか、出て行ってすぐ戻ってくるんだもの」
背筋がぞくりとしました。
「え…ああ、ちがいますよ。昨日確かに私と同じような格好のひとがあの後もうひとり入って行きましたけれども、それは別の方で…ぼくも本当にびっくりしたんですよ。自分にそっくりな方っているものなんですね。他人の空似っていうんですか。昨日も言いましたけど、ぼくは、ここ昨日が初めてですよ」
なぜか、弁解じみたことばを、自分でもそれとわかるほどの早口でまくし立てている自分がいました。ミヤビさんは虫歯が染みて痛みが走っているのを我慢しているような、妙な表情で私のことを見ていました。黙って座っているのも何だったので、私はとりあえず注文をしました。
「ロンサカパをロックでお願いします」
ラム酒の香気が鼻腔を抜けて、甘味、つづいて強いアルコールが臓腑に流れ込んで行く感じがして、私はほうっと息をつきました。
…がちゃん。
次の瞬間、丸氷とグラスがいっぺんに床で粉々になっていました。正面の鏡を見た私の手から、受け取ったばかりのグラスがすり抜けて行ったのでした。鏡に見ているものを信じられない私の手から。
カウンターの向こうには、ミヤビさんの背後に棚があって、たくさんの酒瓶が並べられていました。ほかのバーでもよく見かけると思うのですが、その棚が作りつけられている壁面は鏡になっています。見習いのバーテンダーさんが、シェイカーを振るフォームを確認していたりする、あの鏡です。
私の正面にある鏡には、当然ながら私の姿が映っていました。しかし、その顔は私のものではなく、昨日階段ですれ違った男のそれだったのです。
「顔色が悪い」と心配してくれるミヤビさんに挨拶もそこそこに、私は再びアパートに逃げ帰りました。
傑作
痛みいります。
この文章の巧さはもしや…
素晴らしい
最後のほうマジでゾクゾクした
とても不思議で不気味な話
ドッペルゲンガーなのでしょうが異世界も感じてしまいました
久々にこんな怖くて面白い話読んだかも
もっと有名になって欲しい
似たようなお話が、かつて世にも奇妙な物語でも放映されていたような気がするね。
自分から見た自分と、他人から見た自分。気がつくと認識や行動の食い違い?がいつの間にか生じている。
それまでの自分が、後から来た”自分”に乗っ取られる・成り代わられる・なりすまされる・入れ替わる・・・・そして。
「そんなばかな!これはわたし(おれ)じゃない!」と。
このサイトでもトップクラスの話ですね
他の方とレベルが違う
顔が変わるはきっつ・・・
ためはち
凄い話だ…怖いし面白かった
こりゃ面白いわ
映像化したの観てみたい
江戸川乱歩の作品の様な不気味さがあり非常に面白かったです。
一気に読んでしまいました。
不思議。
怖い。
よく投稿してくれました。
この文章の凄さまさか…………..
絵に描いたような恐怖現象がないにも関わらず、じわりとくる怖さ。
傑作です。
面白い。
しかし「他とはレベルが違う」みたいなコメントはどこのコメント欄にもあるんだな。
テンプレなのかな
これが現実なら相当やばい事やない?