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妖怪・風習・伝奇

kanaさんによる妖怪・風習・伝奇にまつわる怖い話の投稿です

戦国時代の心霊騒動
長編 2025/06/22 16:48 4,004view
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群雄割拠の戦国時代、英傑たちがシノギを削ったその裏で、実は心霊にまつわる話もたくさんあります。やはり今と違って政争によって人を殺し、成り上がり、失敗すると切腹させられる侍の世界では、常に死は隣り合わせ。無慈悲な死の連続が日々行われていた時代ですから、心霊的なものが跳梁跋扈していたのも頷けます。

【その① 上杉謙信】
戦国最強とも言われた越後の龍、上杉謙信。まずは彼の心霊騒動から。
上杉家家臣の中に、ひときわ輝く猛将として『柿崎景家』という武将がおりました。
彼は先手組300騎を率いる大将で、第四次川中島の戦いでは先鋒を務め、武田信玄の本陣を攻めて重鎮の『武田信繁』や『山本勘助』を討ち死にさせています。

また、柿崎景家は上杉謙信が生涯独身だったことにも関与しています。
生涯妻を娶とらなかった謙信は『女』だったのではないかという説を唱える人もおりますが、実は謙信が40代の頃に、伊勢姫という女性と恋仲になっています。
しかし、この伊勢姫は上杉家にとっては敵将の娘。そんな娘との関係などあってはならないと抗議し、関係を断絶させたのが柿崎景家でした。その後伊勢姫は出家し、自害(病死とも)の道を選び、それにショックを受けた謙信は生涯独身を貫いたと言われています。こちらの話も深堀するとロミオとジュリエットの戦国版のようなお話でおもしろそうなのですが、それはともかく柿崎景家はそのように家臣団の中でも当主に意見を言えるような、一目置かれた存在の武将だったということです。

そんな彼の死因には実はいろいろな説があるのですが、その中のひとつが怪談として残っています。ですのでこの話はあくまでも俗説のひとつとしてお考え下さい。

『景勝公一代略記』という後世に作られた書物の中に柿崎景家が織田信長と通じており、この噂を信じた謙信によって討たれたという話が残っています。

当時、馬の管理を任されていた景家は、差し当たって不要になった馬を何頭か京都に売りに行きます。その中の1頭を買ったのが織田信長でした。信長は猛将柿崎景家の馬と知って喜び、景家に贈品と共に丁寧な礼状を書いて送りました。景家はそのことを謙信に報告していなかったために驚かれ、織田と内通しているとの疑いの目が生じます。
謙信は河田吉久、北条高定らに内偵させますが、その結果「柿崎が陰謀これにあり」と証拠を得たと報告を受けます。謙信はすぐさま討ち果たすように命じ討手が差し向けられますが、
当の景家からすればまったく身に覚えがなく、必死に抗弁しますが、進退きわまったと感じた景家は「このような謀に易々乗せられるようでは先は望めない」と謙信に対して恨み言を残しながら切腹したと言われます。

それからというもの、柿崎景家は亡霊となり、夜な夜な謙信の枕元に立つようになりました。そして恨めしそうに自分は謀反などしていないと訴えかけ、さすがの謙信もだんだん精神を病んでいきます。景家の亡霊は夜となく昼となく現れるようになり謙信を苦しめます。
ある時、厠へ向かった謙信の前に景家の亡霊が立ち、とうとう謙信は厠の中で倒れ、昏睡状態となり、そのまま息を引き取ったと言います。春日山城内でも謙信の死は景家の亡霊によるものではないかと噂が広がりました。

謙信からすれば景家は勇猛果敢な家臣でありながら、恋人を自刃に追い込んだ張本人でもあり、また自分が反対していた北条家との同盟を画策した人物でもあり、なにかと疎ましい存在だったのかもしれません。そのようなことから謙信が因縁をつけて誅殺したとも考えられます。現に景家の子は討たれておらず、謀反人の成敗としてはおかしな点があり、この話自体が絵空事とも言われていますが、謙信の私怨が原因ならば、対象は景家一人だけを狙った謀だった可能性も高いでしょう。

いずれにしろ、春日山城で広まった噂があったからこそ、書物に書き残されたのだろうと思います。

・・・・・・・・・・・・

【その② 織田信長】
戦国の覇王、織田信長。戦国のトップに立った織田信長は、おそらく人を殺した数も戦国一だと思います。ですが、彼の事は調べれば調べるほど憎めない存在に思えてきます。

ボクの書く別作品に「朽屋瑠子シリーズ」というのがあり、前回書いた小学生編でも朽屋家と織田家の対立があることを匂わせておりましたが、今後たぶん朽屋瑠子シリーズで戦国編を書くことはないかと思っています。なぜなら、織田信長は敵として描くにはあまりにもイイ人な気がしてならないからです。

そんな織田信長ですが、人々から『魔王』と恐れられていました。そもそもこの魔王の呼び名がどこから来たかと言えば、信長自身が言ったことだと伝わっています。

元亀2年(1571年)9月12日、戦国の世であってもタブー視された所謂『比叡山延暦寺焼き討ち』事件が発生します。これは前年にあった浅井・朝倉連合軍との戦いで、延暦寺が朝倉軍を匿ったことが遠因にあります。信長はこの戦いで実弟の信治、信輿、古参の森可成らを失って手痛い傷を追っているにもかかわらず、延暦寺のおかげで朝倉を追い落とせずにいました。また当時は信長包囲網と言い、信長を四方から攻める戦略が取られていたため、これを打開する策が必要でした。京都の東側にある重要な拠点となっていた延暦寺はまさに信長にとっては排除しなければならない軍事拠点だったのです。

この焼き討ちによって1500人(ルイス・フロイスの書簡)、あるいは3000人~4000人(言継卿記)が首を刎ねられたと言います。(女・子供含む)

この延暦寺から、命からがら逃げ伸びた人たちもいました。彼らは甲斐の国、武田信玄の元に身を寄せます。信玄は信長に対しこの事件を激しく責め「天魔破句の変化なり」と批判の手紙を送っています。天魔破句とは第六天魔王=波旬を意味します。つまり、仏敵です。
また、その手紙の中で信玄は自分の事を「テンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)」と書き記しています。これは天台宗の長である「座主」は自分であると宣言したことになります。

実際には当時の天台座主は正親町(おおぎまち)天皇の弟である覚恕(かくじょ)法親王であるのですが、この覚恕法親王も甲斐に亡命しており、焼き討ちのあった直後に座主の辞意を表明しています。この辞意は正式には認められていませんでしたが、敵討ちのために信玄に対して「あなたこそ次の座主だ」と打倒信長を要請したのは想像に難くないと思います。

信長はその手紙を見て、怒りと共に笑いが込みあげて来たのだと思います。
天台の座主などとおだてられ、不敬な坊主どもの所業をなにも知らない能天気なやつと思ったことでしょう。また、信玄が自分の事を「天魔破句の変化なり」と呼んだことに対しても非常におもしろいレトリックを感じていたかと思います。なぜかと言えば、信長自身がこの手紙に対する返答の中で自分の事を「ドイロク・テンノマウオ・ノブナガ(第六天魔王信長)」と書き記しているためです。まさに皮肉を込めた返しです。

それもそのはずで、第六天魔王=波旬は『仏敵』とも言われますが、ある宗派では神の一人としても扱います。それが日蓮宗です。日蓮は波旬のことを「仏教の邪魔をしてくるが、本気で修行すればそれらの障害も乗り越えられ、さらに強く優秀な僧に成長できるのだから、仏教の邪魔をしているように見えて実は仏教を守る存在なのだ」としており、日蓮が表した法華経の曼陀羅の中にもこの波旬が含まれています。
そして、織田家の菩提寺は日蓮宗の萬松寺(ばんしょうじ)にあるため、信長も当然日蓮の教えを知っており、信玄が批判するつもりで使った『天魔破句』が、実は信長にとっては悪しき修行者を落とし、真の修業を成そうとするものを助けようとする自分の考えそのものであることから、喜んで第六天魔王を名乗ったとも思われます。

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コメント(5)
  • 画像、載せられませんでしたね。残念。奇々怪々さんにはバグがありますね。

    2025/06/22/16:49
  • これでちょっと『信長の野望』で長宗我部を選んで戦うのが面白くなりそうですよね。

    2025/06/22/17:14
  • ↑うんうん

    2025/06/22/21:02
  • 六月投稿が多くて嬉しい
    kanaさん無理しちゃダメだよー
    (倒れて投稿見れなくなったら困る)

    2025/06/23/14:44
  • ↑コメント感謝!!kanaです。
    ただいま通院中~。でも、マックは食う。

    2025/06/27/19:23

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