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妖怪・風習・伝奇

バクシマさんによる妖怪・風習・伝奇にまつわる怖い話の投稿です

バズ美(前編)
長編 2026/09/29 02:36 69view

……さてここは薄暗いマンションの一室。
 背広姿の男が浴槽を見つめている。浴槽にはまるで古池のように濃い緑色の液体が溢れそうに溜められていた
「お食べ、僕の愛しきひとよ」
 そう言うと、男は浴槽に生きた鯉をぽちゃり投げ入れた。
 鯉は悠々と泳いでいたが、何かに掴まれたかのように、突然に浴槽の底へと沈んでいった。しかし、ひどく液体が濁っているものだから、底の様子はまるで伺えない。
 だが、間を置かず緑色の濁りの中に血の色が混じり出した。男は満面の笑みで濁水に微笑む。
「ああ、僕にはもともと生き甲斐というものがなかった。でも君に会えてから僕の人生は実に充実しているよ」
 そう、それまで男には趣味や恋人もなく、日々を無為に過ごしていた。
 だが、あるとき仕事の出張先の付近をぶらついている時に、たまたま好奇心で立ち寄った、朽ちた神社のおやしろの中で妙なものをみつけた。それは、薬包紙に包まれた「入浴剤」であった。
 その薬包紙には墨字で「人魚の湯」と書かれていた。人魚は海水魚じゃないのか?そんな疑問を抱いた男だったが、ちょっとした背徳の誘惑に押されたせいで、その入浴剤を家に持ち帰ってしまった。
 そしてある夜、浴槽に張ったお湯に人魚の入浴剤を入れてみた。すると湯は黄金色に輝いた。
 早速浸かってみると、なんと素晴らしい効能だろう。古傷は跡形もなくなり、不要な脂肪は燃焼された。虫歯は健全になり、眼圧も下がっている気がする。
 こんな貴重なお湯を一度で捨てるのは勿体無い。かくして何日かにわたり、捨てずに入浴していると、次第にお湯は濁りだした。かつて黄金色のお湯は今では古池の様相である。
 しかし、ある時に異様なことが起きた。ぬるりとする湯に足を入れようとしたとき、浴槽内から誰かに足を掴まれた。
 当然それは恐ろしい異様な事象だ。だが、それ以上に驚いたのは、掴まれた足首が若返っていたことである。
 以来男は、この顔を知らない「人魚疑い」に夢中になっている。そして今日、男は意を決してこの古池湯に入浴し、人魚とねんごろになろうと決心していたのだ。男はスーツを脱ぎ全裸になり、石鹸で身を清めると、生臭い古池湯に身を投じた。

 狭い浴槽である。全身を漬けた時点で、浴槽の中に人魚がいないことは分かってしまう。男の心中に失意が込み上げてきた。
だが両膝の間からブクブクと泡が立ったかと思うと、なんと水面から人の頭の輪郭が浮かんでくるではないか。
 邂逅の瞬間。
まず白い髪の毛が現れ、ゆっくりと顔が露わになってくる。男を睨む鋭い眼、鱗に覆われた顔、不整に生えた大きな牙。その様相は、人魚で連想される美しさとはかけ離れた、実に醜い化物であった。
「あぎゃああああああ」
化物は獣性を帯びた咆哮をあげる
 男は悲鳴をあげて浴槽から這い出ようとした。
 しかし、肩を物凄い力で掴まれて動けない。すると肩を伝って男の体は若返っていく。それを見た化物はにんまりと笑う。そして男の首に齧り付いた。
 その刹那、男は理解する。こいつは、獲物を若返えらせてから喰う化物なのだ。まるで人間がフォワグラのために鴨を太らせるように。男はすっかり罠にかかってしまったのだ。
数秒以内に訪れる『死』。
男はそれを確信する。
……そしてまさにこの愚かで不幸な男の意識が途切れそうになったとき
「待てい!!」
唐突に何者かの精悍な声が周囲に響く。
そして窓ガラスを体当たりで破りながら、仙人風の爺が風呂場に突入してきた。
「のう!!そこの軟骨魚類の如き艶肌のお嬢さんよう!!儂と一緒に岩礁で古琴でも鳴らさんかいのう!?」

「・・・あぎゃ??」
化物は首をかしげる
「ところで邪魔じゃ、おぬし」
爺は男を掴むと、消しゴムでも投げるかのように、ひょいと浴槽から男を取り出した。男は確定された死から、一命を取り留めたのだ。
 それから爺はおもむろに服を脱ぎ、どっぷりと入浴した。
 向かい合う変質者と化物。
化物はわずかに逡巡したのち、爺の首に手をかける。無論、アンチエイジングかつ締め作業のためである。しかし、どうしてか爺の身体に変化はない。
「ずいぶんと積極的じゃのう。さながら古世代がデボン期に生きたメガロドンのようじゃ。それではお嬢さんや、儂も本気をだすぞい」
 そう言うと、老人は眼をカッと開いた。途端に爺の筋肉がモリモリと盛り上がっていく。爺の体積は数倍に膨れ上がり、さながらパン生地の発酵のようだ。そしてそれと共に風呂の湯は物凄い勢いで溢れ出ていく。
 やがて爺の尋常ならざるパンプアップした御筋肉によって、ほぼ全てのお湯が浴槽から追い出されてしまった。
「あぎゃ……あぎゃ……」
 すると、人魚の湯という寄る辺を失った「人魚疑い」の化物は、徐々に身体が煙へと気化していく。そしてやがては跡形も無く消えてしまった。
 空の浴槽で茫然自失とする筋肉質の大型霊長類。
……すると破れた窓の外からバズ美がひょいと顔を出した。
「少しパーソナルスペースが近かったかもしれないわね。さぁ、次いくわよ」
ふんどし姿の老人は、いと悲しげな表情を浮かべ、いつまでも浴槽に身を横たえていた。

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