「アキだ!」
「アキ!」
扉を開けようとする母を無理やり抑える。
扉を開けてはいけない。絶対に。震える手で、何とか抑えこむ。
「アキ…アキ……」
扉の先から、消毒液のような匂いがした。
母の目が血走っていて、俺の事なんてひとつも見ちゃいなかった。俺はもう一度死んだのか。
*
気がつくと朝になっていて、腕が痣だらけになった母が扉にもたれて寝息を立てていた。
ほとんど一晩中抑えていた。声も匂いも消えていたし、
家の中には母と自分以外誰もいなかった。
*
*
*
母はもう、俺のことをアキと呼ばなくなった。
その代わり、母は時折寝室の扉の向こうの虚空に向かってその名を呼んだ。
次第に、母は俺の介助無しでは飯も食えなくなって、
言葉を交わす事も難しくなってしまった。
上司に嫌味を言われながらも、会社を休業して、全ての時間を母に捧げることになった。
母の口に食べ物を運ぶ度、幼い頃みんなで行った動物園での餌やり体験を思い出す。確かアキは怖がってやらなかったっけ。
脳裏に、顔をペンで塗りつぶされたアキが怖がってる姿が浮かぶ。
顔が塗りつぶされたアキと、扉の先の虚空に、どれほどの違いがあるのだろう。
母が見つめる何も無い空間を無意味に見つめていると、そんなことを思うようになった。
その姿形が見えなくとも母に求められる弟が羨ましくて、なんとか俺自身を見て欲しくて、介護も、料理も、家事も。母を思って懸命に毎日こなした。
しかし母は物言わぬ動物のようで、その毎日も虚しく滑稽だった。
1週間ほどで溜め込んだ食料が尽き、スーパーに出向く。
不健康に白い肌を照らす日差しがあまりにも眩しくて、自分が世界にとってあまりにも場違いに思える。
匂い、音。自分にとって世界のそれらは母の排泄物であり、呻き声であり、虚空へ向けられた呼び声で、日光の香りや車の音はむしろ酷く異物だった。
家を出てしばらくすると、鼻がツンと痛んだ。
「消毒液……。」























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