ダイラの頭ルートには、主尾根が鋭く屈曲するポイントが何か所かある。地形図から事前にあたりをつけていたのでわかってはいたものの、いざ現場に着くとドロップポイントがいっこうに見つからない。陽のあるうちならリボンを頼りに下っていけるのだろうが、ヴェールのような闇と執拗に降り続ける雨に阻まれては、そうは問屋が卸さない。レインコートをあえて着なかったことのツケも回ってきていた。濡れた衣服のせいで体温が急激に奪われており、正常な判断力が失われつつあった。
下降点を絶望的な気分で探しまわっていると、不意に視界の端をド派手なピンク色の物体が横切った。それがなんであるにせよ、陽の落ちた山中にはおよそ不似合いな代物である。反射的に追跡に移った。謎の物体は成人の早歩きほどのスピードでどんどん尾根を下っていく。徐々に差を詰めていき、10分ほども後を追ったあげく、ようやく正体がはっきりした。
それはどぎついピンク色のレインコートをまとった登山者のようだった。背格好はスリムで、ザックカバーもコートと同様のピンク色、それらがスマートフォンの微弱なライトを煌々と反射している。その登山者は一寸先もわからない暗黒の山のなかを、ライトも使わずに降りているようだ。
〈助かった、こっちに降りていけばいいんだな〉
まったく疑うこともなく、そう思った。改めて書くまでもないだろうが、日没後の登山道で、しかもバリエーションルートで人に会う確率は限りなく低い。目の前の人物が現実に存在するにせよしないにせよ、まともな人間であるはずがない。このときのわたしは執拗に降り続ける驟雨に1時間以上もさらされ、尋常な思考能力を失っていた。視界の端をうろつく登山者を勝手に救世主扱いし、ひたすら後を追っていった。
30分ほども歩いたころだろうか。わたしはある恐ろしい事実に突然、気づいた。
〈わたしは久しく「よし」と口に出していない〉
これは30分以上も正解ルートを辿っていないことを意味する。ダイラ尾根ルートは正規の登山道ではないけれども、リボンはアベレージで数メートル、長くても20メートル以内に1つは必ず巻いてあったはずだ。30分ものあいだ目印を見ていないのだから、ここは不正解ルートなのだ。このまま下っていけば複雑に入り組んだ人跡未踏の沢に出て、進退窮まってしまう。
以上のようなことは、頭ではわかってはいた。だが目の前で登山者が自信ありげにどんどん下っていくではないか? もはや思考能力は寝起き直後以下にまで減退していた。いま辿っている尾根は主脈から派生する枝で間違いない。主尾根に復帰せねばならない。でももう30分も下ってしまった。登り返すには倍近い時間と労力がかかる。すでに歩き始めて8時間以上も経っている。空腹もつらいし足腰も痛む。もう1メートルたりとも登りたくない――。
思考は千々に乱れ、絶え間なく降りつづける冷雨が体温と正気をぐんぐん奪っていく。
* * *
あらゆる状況証拠が遭難のとば口に立っていることを明示していたけれども、派手なレインコートを着た登山者という存在が、それらすべてを帳消しにして余りある霊験を感じさせていた。
現場は下生えの密生した歩きにくい尾根で、霧に覆われた闇も手伝ってどうしても歩みは遅れがちになる。先行者はわたしと一定の距離を保ちながら、つかず離れず数メートル先で忍耐強く待っているのだった。有効視程が1メートル強しか得られない闇と霧のなか、はっきりとその存在を感知できるというのはどう考えてもおかしい。だが地獄で仏の言葉通り、このような極限状態で先駆者がいることほど心強いものはない。
先導者はついてこいといわんばかりに、手招きして合図を送ってくる。フラフラと足が勝手に動き始める。奴に任せておけばこの迷宮から脱出できる。温泉に入ってサウナで整い、担々麺を腹いっぱい食べられる――。下山後の楽しみがとりとめもなく浮かんでは消えていく。
そのときかろうじて残っていた理性が、靄のかかったような頭に一瞬だけ、清明さを取り戻させた。わたしはおのれに喝を入れるため、無意味な大声を力の限り、張り上げた。数メートル先に控えていたはずの登山者が、忽然と姿を消している。あれはいったい何者なのか。自分の脳が造り出した幻覚だったのだろうか。
おそるおそるスマートフォンで現在位置を確認すると、案の定間違った支尾根にいることがわかった。それもかなり奥まで下ってしまっている。ロスは痛いが登り返すしかない。
ルートファインディングさえ遺漏なくやっていれば登る必要のなかった行程を、雨のけぶる陽の落ちた山中で黙々とこなす。体力、精神力ともに限界に近い。
20分ほど登ったころだろうか。唐突に背後から声をかけられた。
「おーい、こっちだよ」
若い女性の声のように聞こえた。なぜだか強烈な懐かしさを呼び起こす声音であった。わたしはすんでのことろで踏みとどまり、振り返らなかった。
「そっちじゃないよ、こっちから下山できるんだってば」
声の大きさから判断するに、ほとんど密着しているような距離感だ。心なしか、幽かな息づかいさえ感じる気がする。
〈振り返れば死ぬ〉
直感的にそう思った。次に派手なレインコートの登山者を目撃したが最後、わたしは正気を失って彼女についていってしまうのだという確信があった。心を平静に保ち、一心不乱に登り続ける。声はわたしを誘い込もうと、さながらセイレーンのごとく執拗に呼びかけてきた。2時間近くも雨に打たれているというのに、わたしは全身汗びっしょりになっていた。
1時間近くも幻聴と格闘しながら登り返したあげく、ついに道を間違えた尾根の分岐点に戻ってきた。わたしは何度も深呼吸をくり返し、素数を暗誦し、地形を読んで根気よく正しいドロップポイントを探った。尾根の入り口付近に藪が密生しており、ルートが不明瞭になっている。まるで山がわたしを返すまいと妨害しているかのようだ。
「こっちだって言ってるでしょっ!」
いきなり目の前に、例の登山者が現れた。瞬間移動してきたとしか思えないような現れ方であった。わたしは初めて彼女と真正面から相対することとなった。
思わず数歩、あとずさった。登山者はかつて藤原岳で会った、美奈子さんという若い女性だったのである。普段人の顔を覚えるのが苦手なわたしが、このときばかりは即座に彼女であると確信できた。なんといっても美奈子さんにもう一度会いたい一心で、10年以上も鈴鹿山脈に入り浸ってきたのだ。
「来て、連れてってあげる」
手を握られた。そのときの感触を、わたしは生涯忘れないだろう。絶対零度かと思うほどの、暴力的な冷たさを。
以前会ったとき、彼女は遭難していたわたしを助けてくれたばかりか、どことも知れぬ〈まぼろしの村〉へ案内までしてくれた。今度はどうなのだろう。手を引かれるままついていけば、もう一度日本の原風景のような農村に行けるのだろうか。それとも……。
























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