わたしは手を振り払った。
美奈子さんは悲しそうに唇を嚙みしめ、じっと上目遣いで見つめてくる。
声に出さず、深く頭だけ下げた。一言でも話しかければ、やすやすと篭絡されるのは目に見えていた。
わたしがテコでも動きそうにないのを察したのか、美奈子さんはくるりと背を向け、そぼ降る雨のなかを支尾根のほうへと下っていく。その後ろ姿があまりにもはかなげに見えるのは気のせいだろうか。待って、と喉元まで出かかったのを、なけなしの精神力で封じ込めた。
彼女が見えなくなってからほどなく、正しい尾根の入り口を印すリボンがあっさり見つかった。
命を拾った瞬間であった。
用心に用心を重ねた結果、下山完了は21:10ごろとなった。営々とこなしてきた750回を超す登山経験のなかでも、ベスト5に食い込むほどの臨死体験であった。
* * *
わたしは尾根の分岐点で遭遇した女性が、10年以上前に〈まぼろしの村〉へ連れていってくれた美奈子さんと同一人物だとは考えていない(それをいうなら、そもそも美奈子さん自体が現実に存在したのかさえ疑わしいのだが)。
おそらく彼女は脳が造り出した幻覚だったのだろう。登山経験者ならわかると思うが、へとへとに疲れ切った下山フェーズでまとまった登りをこなすのがいかに苦痛であるか、わざわざ論じるまでもなかろう。脳が全身の疲労を警告するアバターとして、カラフルなレインコートを着た登山者は生み出された。脳はこう主張していたのだと思う。
〈お前はいまとてつもなく疲れている、登るな、下れ〉
山岳遭難は例年コンスタントに発生している。わたしが足しげく通う鈴鹿山脈でも毎年多くの道迷い遭難が起きている。奥地は地形が複雑で迷いやすいという事情もあるが、よその山域と比べても遜色のない、整備のいき届いた歩きやすいフィールドである。道迷い遭難が起きる余地はほとんどないはずなのだ。
わたしはなぜこんなにも山岳遭難が多いのか、常々疑問に感じていた。長年にわたって抱いていた疑問にひとつの仮説を提出できるだけの体験を今般、わたしはしたのかもしれない。
連日ニュースで報道される遭難者たちが、わたしと似たような経験をしていたとしたらどうだろう。誤ったルートへいざなうように、先駆者のまぼろしが見えていたとしたら。
しばしば遭難者の遺体は、規定ルートから大きくかけ離れた地点で発見されることがある。わたしはそうした事故事例を見聞きするたび、登山者の不可解な行動に首をかしげていたものだ。
いまならわかる。彼らはおそらく、自信ありげに降りていく登山者に導かれるまま、脳死であとを追ってしまったのだ。
あの世へと続く道へ、そうとは知らないまま。
* * *
白状すると、この遭難で再会した美奈子さんがまぼろしだったと断言できるだけの自信が、いまのわたしにはない。本当に彼女は脳が造り出したアバターだったのだろうか。彼女はわたしの手を掴み、引っ張りさえした。幻影にそんなマネができるのだろうか。
仮に美奈子さんが現実の存在だったとすると、彼女の意図が気になる。先導先が人跡未踏の支尾根だったとしても、その先の沢に杣道や林道が通されていないとは限らない。安全なエスケープルートだった可能性はある。
それを確かめるべく、地形図や〈山と高原〉地図などをクロスチェックしたけれども、支尾根の先になんらかの道が通されている形跡は皆無であった。
わたしはどのような態度をとるべきなのだろう。10年以上も鈴鹿に入り浸っていた目的が果たされ、喜ぶべきなのか。彼岸へ連れていかれそうになったことに憤慨すべきなのか。不思議なことに、彼女に対する悪感情はまったく湧いてこない。
美奈子さんにみたび会いたいかと聞かれれば、わたしはためらいなくイエスと答える。聞きたいことが山ほどあるのだ。鈴鹿山脈から離れるときがくるとすれば、それはわたしが死ぬときだろう。わたしは山に魅入られてしまったのかもしれない。
残暑の厳しさも徐々に薄れてきた。あと2か月もすればヤマヒルも鳴りを潜め、鈴鹿もシーズンインとなる。晩秋の冷風吹きすさぶ稜線に、わたしはきっと今年も立っている――。
そんな予感がするのである。























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