検証報告:案件番号09-B「旧市街・指定空き家」
その家は、地図の上では存在しているが、記憶の上では曖昧になる物件だった。売買履歴は残っている。固定資産税も支払われている。だが、誰が住んでいたのかを尋ねると、近隣の住民は一様に言葉を濁した。
「前にも誰か来てたよ。長くはいなかったけどね」
大学時代の友人が最初にその家を見つけた。情報工学を専攻し、物事を数値と構造で捉える男だ。彼は内見に入ったが、二階の突き当たりにある小部屋の前で足が止まったという。
「部屋じゃない。あそこは“余白”だ」
そう言って、二度と近づこうとしなかった。
私は鍵を受け取り、夜九時過ぎにその家へ入った。助手も測定機器も連れていない。一人で十分だと思った。玄関を閉めた瞬間、家の中の音がひとつ減った。外の車の走行音が、壁一枚で遮断されるのは不自然ではない。だが、それとは違う。世界の層が一枚剥がれたような、そんな減り方だった。
一階に異常はない。家具もない。埃の積もり方も自然だ。だが廊下を歩くと、足音が遅れて返ってくる。半拍ほど、自分より後ろから。
二階へ上がる。問題の小部屋は、突き当たりにある。扉は軽い。鍵もかかっていない。
中には何もない。窓もない。畳一枚分ほどの空間。しかし視界が安定しない。壁の直角が、わずかに揺らぐ。線が線でなくなる瞬間がある。
部屋の中央に立ったとき、呼吸が浅くなった。酸素が薄いわけではない。肺は動く。だが、吸った空気が「内部」に届いていない感覚がある。
そのとき気づいた。自分の影が、足元から半歩ずれている。
照明は背後だ。影は前に落ちているはずだ。だが影は横にある。しかも、私の動きに半瞬遅れて追随している。
視線を逸らした瞬間、影が一歩近づいた。
私は部屋を出ようとした。だが、廊下の位置が曖昧になる。扉の枠が、さきほどより狭い。天井が低い。いや、低いのではなく、遠い。
振り返ると、小部屋の内部が深くなっていた。奥行きが増している。さきほどは三歩で壁に触れたはずだが、今は五歩歩いても壁に届かない。
足元を見る。床の板目が途中で途切れている。そこだけ、木目が存在しない。白い。
白い部分は、広がっているわけではない。ただ、最初からそこにあったかのように自然に混ざっている。
ふと、背後で小さな音がした。自分の足音とは別の、もう一つの足音。
振り向く。何もいない。
だが床に、私の足跡とは別の圧痕がある。埃が沈んでいる。子供ほどの小さな足。
それは壁で途切れず、壁の中へ続いている。
私は扉へ向かった。だが、廊下がない。扉の向こうは、先ほどの小部屋だった。
一歩入る。また同じ部屋。壁の傷、床の節目、すべて同じ。
しかし、影が増えている。
私の影が二つある。一つは私の動きに従う。もう一つは、少しだけ遅れてから、別の方向へ動く。
それは壁へ近づき、壁に触れ、壁の中へ沈み込んだ。
その瞬間、強い圧迫が胸を潰した。肺が外側から押される。呼吸が逆流する。
視界が白くなり、次に暗くなった。
気がつくと、私は家の外に立っていた。鍵はポケットに入っている。時間は午前三時を回っている。























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