深夜二時、古本屋のシャッターを閉めたあとで、店の電話が鳴った。
この店に固定電話を残しているのは、店主の老人の趣味だった。携帯で十分な時代に、黒くて重たい電話機がレジ横に置いてある。その古臭さが店の空気に合っていたし、何より「夜中に鳴る電話には、ろくなものがいない」と笑っていた老人は、そういう不吉さごと気に入っていた。
その老人が死んだのは、三日前だった。
脳梗塞。朝、店を開けに来た孫が、バックヤードで倒れているのを見つけた。俺は近所の手伝いとして、その日から店じまいの整理を任されていた。遺族だけでは手が足りない。蔵書の仕分け、帳簿の確認、価値のある本の選別。面倒だが、静かな作業ではあった。
ただ、店内の空気だけが妙だった。
古本屋独特の紙と埃と湿気の匂いに混じって、たまに生臭いような、ぬるい臭いが漂う。配管だろうと思った。老人が倒れた場所が店の奥だったから、気味悪さも勝手にそこへ結びつけていた。
電話は五回鳴って、切れた。
俺は受話器を見たまま動かなかった。遺族から聞いている。老人が死んだあと、この店の電話に無言電話が何度もかかってきているらしい。出ても何も聞こえず、しばらくすると切れる。いたずらだろうと誰も相手にしていなかった。
また鳴った。
今度はすぐ取った。変な間を空けるほうが嫌だった。
「はい、青林堂です」
雑音だけがした。
ザー、という遠い雨音みたいな音。その奥で、何かが擦れている。布か、紙か。しばらくして、声がした。
「……棚の、いちばん下」
男とも女ともつかない、乾いた声だった。
「は?」
「棚の、いちばん下を見ろ」
そこで切れた。
店の中は静かだった。通りの街灯がガラス越しに差して、背表紙を青白く並べている。俺はしばらく電話を握ったまま立っていたが、結局、馬鹿らしくなって本棚を見に行った。
文庫の棚のいちばん下には、落ちた栞や値札の切れ端が詰まっていた。手を突っ込むと、埃の中から一冊の薄い大学ノートが出てきた。黒ずんだ表紙に、老人の字でこう書いてある。
『さわるな』
冗談にしても趣味が悪い。
だが、開いた。
中身は日記だった。ただし文章ではなく、日時と、客の名前らしいもの、それから一言の繰り返し。
五月十二日 田中美代 まだ立っている
五月十五日 佐伯 窓の外
五月十九日 不明 レジ横
五月二十二日 遠藤 天井
意味がわからない。ページをめくるたび、名前と場所が増えていく。ページの後半に入って、やっと文章が出てきた。
『見えるようになる順番がある。最初は気配だけ。次に位置がわかる。最後に顔を見る。顔を見たら、向こうもこちらを見る。』

























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