ただ、私の足音だけが響く。
それが妙なことに、まるで誰かが後ろを歩いているかのように聞こえた。
振り返っても、そこには誰もいなかった。
それでも、木々の間から、薄明かりの中から、何かが見ているような気配が消えなかった。
私は、ある古びた家の縁側に腰を下ろした。
そこで、ふと手にした古い日記の頁が風にめくられた。
文字はかすれていたが、幾つかの言葉は鮮明に残っていた。
「……かやつの地にて、忘れられし者たちが眠る。
此処は時間に忘れ去られ、記憶の狭間に閉ざされた場所。
訪れる者は己の影を失い、己が何者かを見失う。」
読むうちに、私の記憶もまた少しずつ欠落し、揺らぎ始めた。
名前、過去の断片、声の調子。
すべてがどこか遠い幻のように霞んでいく。
それはまるで、私の存在そのものがこの村に溶け込み、曖昧な影へと変質していくかのようだった。
そのとき、再びあの異形が姿を現した。
無表情でありながら、歪んだ笑みを浮かべ、口は動かず、目は深い闇を映していた。
私に語りかけるでもなく、ただ見つめ続ける。
私はその存在が、かつての記憶や現実といったものを曖昧に繋ぐ「境界」なのだと悟った。
この村はただの地理的な場所ではなく、時空の狭間、忘却の淵。
ここに入り込めば、誰もが自分自身を見失う。
それでも、私の中のどこかで、声が叫んでいた。
「戻れ」と。
しかし私は、もう引き返せないのだと理解していた。
この村は私の魂を呑み込み、記憶を奪い、ゆっくりと私を変えていく。
夜が更けると、木々のざわめきがますます深くなり、私の内側から何かが目覚めていくようだった。
そして最後に、私の声が消え、歪んだ「かやつ」の声がその空間を満たした。
私はもう、どこまでが自分なのかわからなかった。
霧の中、私は自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。
名前も、姿も、声さえも、すべてがぼやけていく。
まるで深い森の陰翳に吸い込まれ、形なきものと溶け合うように。

























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