「記憶は“交換する”んです。
澪の痕跡を、君自身の別の記憶で“支払う”。」
彼は続けた。
「“祓い”とは、もともと“捧げもの”だ。
君の中の大切な記憶を代価として、“妹”の痕跡を引き剥がす。
それが“記憶供犠(きおくくぎ)”の祓式だ。」
供犠──いけにえ。
ぼくは選んだ。
「澪を忘れてもいいから、これを終わらせたい」と。
ただ、その代価として何を差し出したかは、祓師が決めた。
「君の小学4年の夏休み──全部をもらう。
家族旅行、自由研究、友達、泣いた夜……
それを捧げる。」
式が始まると、目が焼けるように痛かった。
視界がぶれ、床が傾き、耳元で澪が「やだよ」と泣いていた。
“払え。払え。”
どこかで無数の声が重なる。
“祓え。祓え。”
今度は、自分の声だった。
祓師が鏡に息を吹くと、そこに映っていた澪の姿がふっとかき消え、
ぼくの中の“あの夏”の記憶も、二度と再生できなくなった。
家に戻ると、澪の部屋はなかった。
間取りが変わっていた。
ランドセルも、写真も、全て最初からなかったことになっていた。
母に「旅行っていつ以来だっけ?」と聞いても、
「行ったことあった?」と首をかしげられた。
世界ごと、改変されていた。
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──わたしは、選ばれた。
それを「救い」だと思っていたのは、ただの勘違いだった。
わたしの名は、澪(みお)。
本来なら、もうこの世にはいない。
兄に“祓われた”のだから。
けれど、祓いは“消滅”ではなかった。
祓われたモノは、行き場を失って漂う。
記憶の座を追われた私は、行く場所をなくして、
やがて“鏡の向こう”にたどり着いた。
鏡の内側には、わたしと同じように“祓われた贄たち”がいた。
彼らは、もう言葉を話さない。
誰から祓われたのかも、何を奪われたのかも思い出せない。
ただ、ひとつだけ──
「どうして自分が選ばれたのか」
その問いだけが、何千回も、何万回も反響している。
“なぜ私だった?”
わたしは、それに答えたくてずっと考えていた。
答えを知っているのは、ただ一人、兄だけ。
あるとき、鏡の奥に空間ができた。
そこから“兄の視界”が、断片的に流れ込んできた。
兄は祓師のもとで、今度は自分を祓う儀式をしていた。
──“自己を祓う”という行為は、
現実世界の座標から、自分自身の認識ごと削り取ること。
“自分が自分だった”という前提を消すこと。
それは、人格の消去であり、存在の蒸発だ。
けれど、彼はそれを選んだ。
「澪がいたということを、世界から消せないなら、
自分が“兄だった”という事実を消すしかない」
──でも、それは違う。
私は贄だった。
けれど、“勝手に選ばれたくなんかなかった”。
わたしは兄に祓われた。
記憶と一緒に払われた。
でも、“ささげた”のは私じゃない。奪ったのは兄だ。
それが祓師の罠だった。
祓いとは、他者のための供犠。
本人の意思など関係ない。
だから「祓われた者」は、贄として捧げられた存在になる。
わたしは選ばれたわけじゃない。
捨てられただけだった。
──だから、拒絶した。
祓いの最終段階で、兄が“自己の存在”を払おうとした瞬間、
鏡の奥から、わたしは彼に言った。
「いらないよ、そんな祓い。
今さら、なかったことにしないで」
兄の手が止まる。
鏡の中のわたしが、手を伸ばす。
その手が、祓いの結界を破って──
目を開けると、わたしは、兄の部屋に立っていた。
──兄は消えていた。
いや、正確には、兄だった存在が、わたしの中に流れ込んでいた。
記憶も、感情も、声も、世界も。
彼が持っていた“わたし”の記憶の残滓が、
わたしの意識と溶け合っていた。
そう、わたしは“贄”だった。
そして今、贄は贄でなくなった。
鏡の世界で、何千人もの祓われた者たちが待っている。
“捧げられた”まま、戻れなかった魂たち。
彼らを、“贄”ではなく“名”に戻すために、
わたしは、もう一度祓師の元へ向かう。
これは供犠の物語じゃない。
奪われたものが、奪い返す物語だ。
払うな。祓うな。
思い出せ。
わたしの名は──澪。
そしてあなたも、
祓われていないか?
忘れた誰かの“名”とともに、生きていないか?
鏡の向こうから、
“まだ名前を取り戻していない贄たち”が、
あなたの中に空席があるのを見ている。
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