存在しないはずの旅館
投稿者:足が太い (69)
音を立てないようにトイレの個室から出て、トイレの扉をそっと開けて、廊下を見渡しました。
思っていた通り誰もおらず、物音も聞こえないので、妹と合図をして、静かに廊下を歩いていきます。
女将さんや従業員の方がいれば助けを求められるのに、どこに行ったのだろうと思いながら、恐る恐るフロントまで行きました。
ここまで来れば、あとは目の前に、旅館の外へ出られる玄関があります。
急ぐ気持ちを何とか落ち着かせながら靴を履いて、旅館の玄関を出ようとした時、ふと視線を感じて思わず振り返ってしまったのです。
振り返ったことを後悔しました。
先程まで全く見かけなかった女将さんと従業員の方がずらりと並び、物凄い形相でこちらを睨んでいるのです。
よく見ると女将さんや従業員の方の着物は真っ赤な血で染まっています。
口元を見ると何か呟いているようですが、声が小さくて聞き取れません。
動けず固まっていると、妹が「お姉ちゃん、あの人達もう生きてないよ!幽霊だよ!早く逃げよう」と私の手を引っ張って外に連れ出してくれました。
そのまま走り、明かりのついている民家を目指します。
15分、20分程走ったでしょうか、やっとの思いでたどり着いた民家の扉を叩き、事情を話して中に入れてもらいました。
民家の住人の方は、いきなりのことで最初は戸惑っていましたが、私達の様子を見て嘘ではないと思ったのか、親切に部屋へ上げてくれたのです。
「随分怖い思いをしたんだね、ちょっとでも落ち着けるように、これでも飲んで」と言って温かいお茶を出してくれて、緊張の糸が切れたのか泣いてしまいました。
私と妹が泣きながら旅館で起こった出来事を話すと、民家の方は「旅館の霊に呼ばれたのかねぇ…」と寂しそうに呟いた後、あの旅館について知っていることを教えてくれました。
民家の方が言うには、私達が泊まった旅館は、今から40年前に取り壊され、今は旅館跡地は墓地になっているのだそうです。
旅館は地元でもそこそこ有名で、当時は全国各地から宿泊客が訪れる程、人気だったようでした。
しかし、女将の息子さんが精神を病み、自ら命を絶ってから、旅館はすっかり変わってしまったのだとか。
息子さんの霊が夜な夜な現れ、宿泊客を追いかけまわしては怖がらせるのだそうです。
そういうことが度々起こるので宿泊客は減り、従業員も辞めていき、女将さんもその夫も精神を病んで、息子さんと同じように自ら命を絶ってしまったのでした。
その後、親族の方が旅館を引き継いだもののやはり幽霊騒動が起きてしまうので、旅館は取り壊され、あの場所は墓地となったのです。
民家の方はそのまま家に泊めてくれて、翌日、車で旅館跡地まで送ってくれました。
そこには私と妹の荷物が置いてありましたが、旅館ではなく墓地で、民家の方には「昨日あったことはもう忘れてしまいなさい。怖い思いをしただろうから、ここにはもう来ない方が良い」と慰められました。
荷物を回収し、民家の方に電車の通っている町まで車で送ってもらいながら、あの男の正体を考えていたのですが、何だか聞くに聞けなかったです。
聞けば、民家の方は答えてくれると思いますが、あの旅館のことよりも更に恐ろしい真相を知る気がして。
妹も私と同じことを思ったのか、あの熊のような男については一言も話しませんでした。
それ以来、あの旅館があった場所どころか、あの県自体に近づいていません。
あの男は誰なのか、旅館が廃れた原因は本当に女将の息子さんなのか、そもそも私達はなぜあの存在しない旅館に泊まることになったのか。
謎が残ったままでモヤモヤしますが、本当のことを知ればあそこから帰ってこれなかったかもしれないので、曖昧ままで良いのだと思います。
会社の同僚が仕掛人なのですかね。
交通手段は歩きかな?