――人ってのはリスクを恐れる生きものなんだよ。
何の脈絡もなしに、その人は云う。片手にビールの入ったグラスを持ち、赤らんだ顔は何処か得意げであった。
「そういうもんですか」
言ってから適当な返事だと思った。
四方を取り囲む壁は、二人だけの密室的な空間を形成してくれていた。騒いでいる隣の部屋の声が然程気にならないのは、物理的な距離以上の隔たりがあるからだと思われた。
「そういうもんだ」
その人は片方の口角をにゅいっと上げて、続けた。
「たとえば、包丁を持つ女が居たとする。それは恐ろしい。恐ろしいのだが、何が恐ろしいのかと言えば、己が傷つけられるかもしれないというところが恐ろしい。でも逆に言ってしまえば、その女というのは何ら恐ろしくないんだな。女は女であって、そこに居るだけだ」
――人間が見るのはそこにあるリスクなんだよ、と云い、その人はビールを飲み干す。
「確かに怒鳴られるのが怖いのであって、高山さんが怖いわけではありませんもんね」
高山というのは俺の上司である。パワハラが問題視される時代にそぐわない、頭からつま先まで昭和で染め上げられたような人間だった。
「その通りだ」
その人は俺に指を指すと、自分への褒美と言わんばかりにトクトクとコップにビールを注いだ。
――俺は。
――俺は、この人が怖い。
「厭だ、とか好きだ、とかはまた別の話だぜ? こと『怖い』というジャンルに於いては人は人を見ているんじゃあなくて、その後ろにあるリスクを見ているんだよってことだ」
――その話に異論はない。俺もそう思う。そう思うのだが――。
――俺はこの人が怖いのである。
何故、と聞かれると非情に難しい。特に何かされたわけでもない、それどころか、喧嘩めいたことなど一度もしたことがない。
優しい人なのだ。きっとこの飲み会もこの人の奢りに違いない。
俺の話もよく聞いてくれる。困ったら真っ先に相談するのは、もしかしたらこの人かもしれない。
でも。しかし。
この人が尋常ではなく怖いのだった。
先の話に則るなら――怖くないはずなのである。何故なら、この人にリスクなど一切ない。見た目だって人懐っこい顔をしていて、誰にでも好かれるのであろうことが容易に想像できる。怖がる要素など一切ないはずなのに、恐ろしい。
今だって平静を装ってはいるけれども、足の震えが止まらない。今すぐにでも逃げ出したい。この人と個室に二人きりで居るなど考えられない。
では、何故そもそもこの飲み自体を断らなかったのか――。
そこが自分でも解らない。あえて無理やり言語化するのであれば、途轍もなく恐ろしいのだけれど、実際に会おうとなった時に恐怖心が絶妙にコントロールされるのだ。怖いけども、会ってもいい――という具合に。否、それほど軽いものではないかもしれない。“会わなければならない”という強迫観念にも似た感情に突き動かされるのだった。でもそれは間違いなく自分の意思だ。それだけは確信できる。
だからこそ意味が分からない。
俺は頭が狂ってしまったのだろうか? しかし、そういった不可思議な感情に捉われるのは唯一、この人のみなのである。
「大丈夫か…?」


























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