ナイフを握る手が、震えていた。指先が僅かに揺れて、刃先が絵の上で頼りなく震えている。
だが、そんなことに構っている余裕はなかった。男の頭の中は、この続きをする事で生じるであろう結果に恐怖し、怯えていた。しかし、B子さんのあの柔らかい笑顔、あの少し疲れた横顔、あの人が隣で笑ってくれる未来。その想いが、男を突き動かした。
「ただの偶然だ」
そう何度もつぶやいた。震える手で、絵の中の父親の胸のあたり、心臓と肺のある場所を狙って、ナイフを振り下ろした。
ドス、ドス、ドス。
男は震える手で何度も、何度も刺した。
翌朝、男はA君が登園してくるのを待っていた。
A君は、今にも泣き出しそうな顔でB子さんに手を引かれてやってきた。男は駆け寄って、屈み込んで、A君の顔を覗き込んだ。
「どうしたの!? 何かあった?」
A君は、目に涙をいっぱいに溜めて、絞り出すように言った。
「お父さんがね……ぜーぜーいってて、苦しそうなの……」
その瞬間、男の中で何かが弾けた。
頭が痛い。次に、ぜーぜーいって苦しい。頭、上半身。刺した順番と、完全に一致していた。偶然じゃない。もう偶然なんかじゃない。
効いてる。俺の呪いは、本当に効いている。
男はA君の頭を優しく撫でながら、B子さんにも声をかけた。それは心配ですね、お仕事もあるでしょうけど、無理なさらないでくださいね、何かあったらいつでも園にご相談ください——そんなことを、神妙な面持ちで言った。B子さんは少し疲れた顔で、ありがとうございますと頭を下げた。
その日の夜から、男は変わった。
もう手は震えなかった。震える理由がなくなったからな。男は毎晩、あの絵に向かって果物ナイフを振るった。もう「いなくなれ」なんて子どもみたいなつぶやきはしなかった。ただ、黙々と、絵の父親の身体だった部分に、穴を空け続けた。絵は原型を失って、父親だったものが何なのかも分からないくらい、ぼろぼろになっていった。自分でも分かるほど目を爛々とさせ、男はそれを続けた。
それから、ひと月も経たないうちに、A君の父親は亡くなった。
「急な体調の悪化で入院して、そのまま帰ってこなかった。原因は結局、はっきりとは分からなかったらしい。若くて健康だった男が、ある日突然頭が痛いと言い出して、呼吸が苦しくなって、あっという間に亡くなった。医者にも分からなかった。当然だ。原因は、あの男の部屋にあったんだからな」
男はそう言って、ジョッキを傾けた。向かいの男は、もう何も口にしていなかった。
「通夜にも葬儀にも、男は保育士として、園を代表するような顔をして参列したそうだ。B子さんは憔悴しきっていた。あの柔らかい笑顔は消えて、目の下には濃い隈ができていた。A君は、状況をよく理解できていない様子で、B子さんの手をずっと握っていた」
「男は、B子さんを親身に慰めた。何かあったらいつでも相談してください。園としても、できる限りのことはさせていただきます。お子さんのことも、私たちが精一杯サポートしますから。そう言って、何度も何度も、B子さんに寄り添った」
「最初は、B子さんも遠慮していた。でも、頼れる人が周りにいなかったんだろうな。次第に、B子さんは男を頼るようになった。男は誠実に、丁寧に、B子さんとA君を支えた。買い物に付き合ったり、A君を遊びに連れて行ったり、時には家の修理まで手伝った。B子さんは少しずつ、以前の笑顔を取り戻していった。A君も、男によく懐いてくれた」
「時間はかかったよ。旦那さんを亡くしたばかりの女性に対して、あからさまな態度を取るわけにはいかない。男は忍耐強く、B子さんの心が少しずつ癒えていくのを見守った。そして、その隣にいつも自分がいるという状況を、時間をかけて、当たり前のものにしていった」
「A君が卒園するのを待って、男はB子さんにプロポーズした。B子さんは、涙を流して、頷いてくれたそうだ」
男は、そこで一度言葉を切って、ジョッキを傾けた。隣のテーブルからは、明るい笑い声が響いている。若者たちの就活話は、まだ盛り上がっているようだった。
「今、男はB子さんとA君と家族として暮らしているらしい。B子さんは毎朝、男のためにお弁当を作ってくれる。A君は男をお父さんと呼んでくれる。A君はもう小学生だ。もうすぐ高学年になる。男のことを、本当のお父さんのように慕ってくれているそうだ。B子さんも、あの頃の柔らかい笑顔を、完全に取り戻したらしい」
「二人は、何も知らない。男がA君の父親を呪い殺したことも、旦那さんが亡くなってからの男の優しさは、二人の生活に入り込むためのものだったことも、知らない。ただ、あの辛い時期に親身になって支えてくれた優しい男として、男のことを見ている。B子さんは今でも、時々男に言うらしい。あなたがいてくれて本当に良かった、あなたがいなかったら私たちどうなっていたか分からない、って」
「A君も、男の腕に飛びついてきて、お父さん大好きって、そう言ってくれるそうだ」
男は、そう言ってジョッキを傾けた。居酒屋の黄ばんだ照明の下で、その表情はとても穏やかで、幸せそうにさえ見えた。






















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