男は、A君の絵に手を伸ばした。指先は、わずかに湿っていた。心臓の音が、いつもより大きく聞こえる。A君は今日、何枚か絵を描いていた。動物園らしき絵、遊園地らしき絵——そういった具体的な思い出の絵は避けた。ただ父親と子どもが並んでいるだけの、何の変哲もない一枚を選んだ。A君は、自分が何枚描いたかなんて正確には覚えていないだろう。
選んだ一枚をそっと自分の鞄に滑り込ませた。
誰も見ていなかった。誰も気付かなかった。
「その夜、男はいつものように帰宅して、いつものように缶ビールを開けた。テレビをつけながら、ぼんやりと晩酌を始めた。一本目を空けて、二本目に手を伸ばした頃、酔いが回ってきた男は、ふと昼間に鞄に入れた絵の事を思い出したそうだ」
「そういえば、あれ、やってみるか」
男はそんな軽い調子でつぶやいて、鞄から絵を取り出した。机の上に広げてみる。子どもが描いた、ぎこちない笑顔の父親がそこにいた。
台所に立って、シンクの脇に置いてあった果物ナイフを持ってきた。刃渡り十センチほどの、どこの家にでもあるようなやつだ。ナイフを机に置いて、絵に向き合ったところで、男はふとテーブルに目をやった。
このままだと、テーブルに傷がつくな。
そんなことを考えて、近くに転がっていた雑誌を一冊手に取り、絵の下に敷いた。そんな実務的なことを考えている自分に、少しだけ笑ってしまったらしい。
缶ビールをぐいっと呷って、ナイフを握った。
「いなくなれ。いなくなれ」
男はそうつぶやきながら、絵の父親の顔に、何度もナイフを突き立てた。ドス、ドス、という音が部屋に響いた。酔いが回ってきたせいか、「いなくなれ」という言葉だけを子どもみたいに繰り返していた。
何回か刺して、ふと手が止まった。
「何やってんだろ、俺」
急に馬鹿馬鹿しくなってきた。三十過ぎた大人が、深夜に一人で子どもの絵にナイフを刺して、いなくなれと呟いている。滑稽以外の何ものでもない。男はナイフを机に置いて、残りのビールを飲み干した。絵は雑誌の上に置いたままで、部屋の明かりを消して、その夜は寝た。
翌朝、男はいつものように出勤した。子どもたちが登園してくる。おはよう、おはようございます、と交わされる挨拶の中で、あることに気付いた。
A君が、いつもより元気がない。
男は屈み込んで、A君に声をかけた。
「あれ、何か元気ないなー、どうしたの?」
A君は、少し俯いてから、小さな声で答えた。
「うん……お父さんがね、朝から頭が痛いって……」
その瞬間、男は自分の心臓が跳ねるのを感じた。頭が痛い。頭。昨日の夜、絵のどこを刺した? 顔だ。頭だ。
表情を変えないように必死だった。子どもの前だからな。プロとしての顔は絶対に崩さない。男はA君の頭に手を置いて、穏やかな声で言った。
「そっか、それは心配だね。でもすぐ良くなるよ。だからA君も元気出して」
A君は、うん、と小さく頷いた。
男はそこまで話すと一度言葉を切って、生ビールをひとくち飲んだ。向かいの男は、ジョッキに手を伸ばしかけたまま、動きを止めている。周囲の喧騒が、二人のテーブルだけを避けて流れていくようだった。
「その日一日、男は仕事に集中できなかった。まさか、と何度も心の中で繰り返した。ただの偶然に決まっている。呪いなんてあるはずがない。ネットの、どこの誰が書いたかも分からない話が、本当に効くわけがない。でも、頭が痛いって、A君は言ったんだ」
「仕事が終わって家に帰った男は、机の前に座った。絵は、昨日と同じ場所に置いてあった。父親の顔には、何回か刺した穴が空いていた。もう一度、果物ナイフを手に取った」
今日は酔ってなどいない完全な素面。これから自分が何をしようとしているのかもはっきり理解している。
このナイフを刺したら、もう後戻りできないかもしれない。それは分かっている。もし本当に呪いが効いているなら、この続きをやることは、本気で人を殺そうとしていることになる。分かっている。全部、分かっている。























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