女を殺した。
首筋の細い女だった。
うだつの上がらない人生、その中で蓄積された様々な不満が爆発した結果だった。要は殺す対象は誰でもよかった。あの女は不運だったのだ。強いて言えば、お高くとまったハイヒールを履いて、悠々と歩く女の後ろ姿が気に食わなかったくらいか。
私の気持ちはしでかしたことに対して、ひどく晴れやかだった。今日は会社を無断で休み、家の近くにある喫茶店で優雅にコーヒーを啜っていた。
会社から家への帰路で衝動的に女を殺し、その後始末もすることなくそそくさと帰宅した。日本の警察は優秀だ。明日、いやもしかしたら今日にでも私を逮捕しにくるに違いない。そうすれば、こんな退屈な世界とはおさらばできる。勿論、会社にだって行かなくて良い。あのじめじめとした小さなオフィスに拘束される日々から解放される。そう思うだけで、高揚感を覚えた。
カラン、と入店のベルが鳴る。何の気なしに入口に視線を転がす。
私は持っていたカップを落としそうになった。
女だ。
昨日、私が殺したはずの。
叩きつけるような動悸が心臓を揺らした。女は昨日と変わらぬ足取りで此方へ向かってくる。私は逃げ出そうにも体どころか目線さえ動かせなかった。
女はさも待ち合わせしているかのように、迷いなく私の差し向いへ腰を下ろした。女の切れ長の目がじっと私を見つめている。黒く沈んだ瞳は私を彼岸へと引きずり込もうとしているかのようだった。
そこで合点がいった。
これは女の幽霊だ。いや、正確に言えば怨霊である。殺された女の怨念が具現化し、霊という形で私の元へ訪れたのだ。霊は非科学的なものに違いないが、事の流れとしては別におかしくはない。無念を晴らそうと、今度は私を殺しに来たのだろう。
それも悪くない、と思った。
警察に捕まるのは手段のうちの一つで、別に私が積極的に望んでいるわけではない。私をこの腐った社会から引き離してくれればなんでもいいわけで、出来事としては荒唐無稽だが、殺した女に殺し返されるという方が幾分か納得できる気がした。そう思うと、ふっと狼狽が体から抜け、私はコーヒーカップを極めて丁寧に机に置いた。それから改めて女に顔を突き合わせる。
「愛い人」
女がぽつりと言う。
首筋を舐められるような淫靡な声色だった。私の体は強張り、別の意味で緊張した。
※
どういう因果か私と女――明美は結婚することになった。
まるで何者に操作されているかの如く、話はとんとん拍子に進み、気が付けば私たちは夫婦という社会的契約を以て同棲を始めていた。私は明美と出会ったその日に仕事を辞め、後日、明美が紹介してくれた別の会社で働くことになった。環境が変われば人が変わる――とはよく言ったもので、今の職場は私の精神状態を劇的に好転させてくれた。お陰で鬱屈した感情を殆ど抱くことなく、明美との生活を送れている。
来年には私の子が生まれる。母に報告すると、諦めていたと笑い交じりに告白された。私もだ、と自嘲しながら返事する。話し相手はいつの間にか父と交代しており、長電話に拗ねた明美が後ろから抱き着いてきた。
彼女は大層、美麗だった。仲の良い友人からは結婚詐欺ではないかと揶揄われた。私だって未だに半信半疑である。しかも彼女は外見のみならず、精神的にも成熟しており、てんでダメな私を全面的に支えてくれている。家事も率先してこなしてくれるし、私が落ちこんでいると察すれば、聞き役と話し役両方から励ましてくれる。私には勿体ない女性だ、と常々思う。
そんな幸せな悩みが齎される一方で、時折、じくじくとした傷口のような疑念が首を擡げる。
私は明美を殺している。いくら思い返したって、その記憶は捏造されたものではない。あの日の光景ははっきりと細部に至るまで思い出すことが出来る。明美の細い首に十本の指を這わせ、親指に思い切り力を込める。喉元を押しつぶすように、それまでの鬱憤を一切合切ぶつけるように。
――ぐげえ。
顔面が徐々に紫色に変色していき、遂に人間が到底出せるとは思えない声を出しながら、彼女の全身はだらりと脱力した。口の端からは泡を吹き、小さくなった瞳孔は目の上辺へ浮かび上がっていた。
あの感触を忘れたくても忘れられない。
ある日、私は堪えきれなくなって明美に尋ねた。お前を殺したよな、と。明美は洗濯物を畳む手をぴたりと止め、しかし、私の方を見ることもなく、
「はい」
とだけ言った。
その冷徹で底のない声に私は慄き、それ以上その話題に触れることができなかった。






















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