「あ、アリクイだ」
下校の最中、横に居たサキが唐突に声色を変えたので驚いた。サキの指さす方を見ると、道端の茂みにしゃがみこんでいる男が居た。じっと地面を見つめ、時折、手を地面と自分の口元へ行ったり来たりさせている。
ベージュ色の短パンに薄汚れた黄土色のTシャツを着ているその男は、地域の子供たちから『アリクイ』と呼ばれている。名前の由来はまったくそのままで、蟻を食っているからである。今もその真っ最中に違いない。私はアリクイのしていることを想像して、思わず吐きそうになる。対照的にサキは立ち止まり、好奇心の灯った瞳でじっとアリクイを見据えている。私は力強くサキの手を引っ張った。
「早く、行くよっ」
親や先生たちからアリクイには近づくなと警告されている。たまに警察の人たちに囲まれているアリクイの姿も見る。アリクイは要注意人物なのだ。しかし、奇妙なことにアリクイは誰かに危害を加える気配を見せない。そういう話を聞いたことがない。アリクイはあくまで蟻を食っているだけなのだ。だから大人たちは積極的な対策をとれず、臭いものに蓋をするような対応しかできないのだ、と私は予想する。
サキは少し抵抗したものの、すぐに従順になり、私たちはその場を離れることができた。そして次の瞬間にはまるで何もなかったかのように、サキが明日の体育の話をしだす。私はアリクイの姿と口の中に感じる気持ち悪さを中々、拭うことができなかった。
早く死んでくれればいいのに――よくないと思いながら、そんなことを願ってしまう。
野生の昆虫を食べ続けて健康でいられるようには思えない。それでも、アリクイはどれくらい前から居るかは分からないけれど、少なくとも私が小学校低学年の時から居た。アリクイのような人に限って、病気とか事故に遭わないものだ。
蟻みたいな小さな生物を蔑ろにするとね、ひどい目に遭うよ――これは祖母に言われたセリフだった。祖母の家の居間で寛いでいるときに、私は机を這う蟻を一匹見つけた。すかさず押しつぶそうとする私を祖母が制し、その言葉を放ったのだった。その言葉に従うならアリクイはいつか“ひどい目”に遭うはずだ。しかし現実にはそうなっていないわけで、果たしてそういう“バチ”のようなものは存在するのかと懐疑的になってしまう。
禿げ上がった頭皮に、細い目、そこに納められた虚ろな瞳。線の細い体は明らかに栄養失調気味で、本当に蟻しか食べてないのではと思ってしまうほどに痩せこけている。いつも土をほじくっているせいか、特段手が汚れていて、爪先は真っ黒である。さらに近づくとアンモニアのような匂いがする。服装はいつも決まっていて、おそらく取り替えてもいないだろうから汚れ切っている。
それがアリクイだった。
アリクイは神出鬼没で、特に生息場所は決まっていない。私たちの街の蟻の居そうな場所に出現する。先に述べた通り、人に危害を加えるどころか興味を抱く素振りすら見せず、ただひたすらに蟻を食べている。
アリクイの蟻の食べ方は少し特徴的だった。
アリクイはある程度、摘まんだ蟻を口元へ寄せると、ひょいっとそれを口内へ放り入れる。私がチョコボールを食べる時の動作に似ているから、すごく厭だった。
何が目的なのだろう。当然、蟻など食べたことがないからアリクイの考えは到底、理解ができない。美味しいのだろうか。気持ちが悪いと思いつつも時々、考えてしまう。蟻が美味しいとは到底思えない。小さいから噛み応えもないだろう。では、たとえば、倉内君が爪を噛んでしまうように、蟻を食べる行為はアリクイの癖なのだろうか。
癖ってのはもっと身近にあってすぐにできるから、癖になるんじゃないの――と思う。蟻はどこにでもいるけど、いちいち外へ出て探すという工程が挟まる時点で、癖としては成立しにくい気がする。考えた挙句、結局いつも行きつくのは、真意は分からない、アリクイは異常者だという結論だった。いやその結論は間違っていないのだろう。ただ、あるかも分からない真相を探してしまう自分もいた。
ある夏の日のこと。
夏は年々その暑さの強度を高めている気がする。燦燦と降り注ぐ日光とむわりとした外気が私の推進力を削いでくる。私は家から徒歩十五分程度の場所にあるショッピングモールを目指していた。家に居ても暇なので、サキと一緒に服を見る約束をした。歩いて暫くしてから、最近お母さんに買ってもらった日傘を持ってくればよかったと後悔する。
曲がり角を曲がった瞬間、ぎょっとした。
すぐ目の前でアリクイがしゃがみこみ、道路脇の土をじっと見つめていた。視線の先には蟻の行列がいる。相手からしたら私がいきなり出てきた形だが、例によってアリクイは此方に見向きもしない。私はなるべく平然を装いつつ、アリクイの後ろを通り過ぎようとした。
その時、変なものが視界の端に見えた。
アリクイの右腕の手首と肘の中間あたり。そこに、小さな穴があった。最初はホクロかと思ったが違う。それは間違いなく、ぽっかりと空いた穴だった。周囲にはなだらかな斜面が出来ており、中央に黒い穴が据えられている。つまり、少し凹んだ位置に穴があるということになる。
私の視線はそれに引き込まれた。アンモニアの香りが漂ってくる。
やがて、その穴から何かがもぞもぞと出てきた。
私は思わず凝視してしまう。それは二匹のハネアリだった。叫びそうになって、寸前で押しとどめる。
なぜか目を逸らしてしまった。そしてもう一度、視線を戻す。
見間違いではない。穴から這い出た蟻は腕の表面を歩いている。
突然、アリクイが私の方を振り返った。
呆けたその表情は私のことを見ているようで、見ていない。どこを見ているかも分からない。
なぜなら。その黒目は。虚ろな黒目は。
無数の蟻。
黒い丸の縁から、何本もの小さな線が飛び出し蠢いている。
私は急いでその場から駆け出した。追ってくる気配はない。
彼は――彼は。
――蟻みたいな小さな生物を蔑ろにするとね、ひどい目に遭うよ。
祖母の言葉を思い出す。
既に彼は“ひどい目”に遭っていたのだ。
私はある程度走ってから道端に吐いた。びしゃびしゃとゲロが地面に落ちる。壁に手をつき、それが収まるのを待つ。涙が目に滲んだ。
一通り吐き終えてもなお、ショックが頭を支配しており、なかなか動く気になれなかった。そのままの姿勢で、地面に広がったゲロを見つめる。
茶色の液体の中で何かが動いた。
それは蟻だった。
私ははっとした。五匹ほどの蟻がゲロの中でぴくぴくと痙攣している。その外側で、難から逃れた蟻たちがぴたりと立ち止まっていた。
蟻たちが首を擡げ、私のことを睨んでいる――ような気がした。



























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