幸い、後ろから追いかけられている気配はしませんでした。
外に立ててあった自転車に跨り、すぐに漕ぎ始めます。
ふと気になって、恐る恐る10階に目をやると、Aくんが片手に何やら細いコードのような物を持ち、ベランダからこちらに手を振っていました。
ごめんAくん、今日はすぐ帰るから…明日。
そう心の中で謝り、見えなくなる曲がり際の所で再度目をやると。
さっきとは打って変わって、女性と男性とAくんがベランダに並んでただこっちを見ていました。
まるで影が落ちているかのように、暗く、黒く佇んでいました。よくよく目を凝らしてやっと表情や輪郭が辛うじて見えます。
彼らの周囲の空間が、水に溶かした砂糖のようにゆらゆら、ゆらゆらと揺れていました。
女性の方は見覚えがありました。
Aくんのお母さんです。
恐らくAくんを挟んで隣にいる男の人もお父さんだったと予測できました。
しかし、それはあまりにも奇妙な光景でした。
家族総出で、手も振らず、3人ともただじっと立って見つめているだけなのです。
それに、そもそも私は彼の父の姿を見ていません。
家にはAくんとAくんのお母さんしかいなかったはずです。
でも、そこには確かにいました。
視線の端でAくんらしきものが口角をゆっくりと上げている気がしましたが、気のせいということにしました。
家に帰り、Aくんにちゃんと謝ろうと思いキッズガラケーを開きました。
着信が1件。
最初は帰りを心配した親からだと思っていましたが、違いました。
着信主は、あの時玄関の目の前にいた”Aくんから”でした。
改めて電話をかけると、
「充電器忘れてたぞ、明日でいい?」
と言うので、ちゃんと「Aくん」だと安心しました。
いいけど、やっぱ今度はうち来ない?
一応同じゲーム持ってるし、Aくんち何回も行くの悪いから…
そうして、以降は二度と彼の家に行くことはありませんでした。
後日、なんで9階から階段で行ったのかについて、本人に思い切って聞いてみました。


























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